日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

夏の読書感想文(下)中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)の歴史的意義

はじめに

本書が2019年水準での太閤検地論であることは、第一章「天正八年播磨・但馬検地」(19頁)に3月に報道された、未発見の秀吉家臣の名前が記された検地帳の考察から明らかである。

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「おわりに」によれば、2018年に刊行する予定だったとあるが、本年刊行となったことは偶然とはいえ、読者にとって幸運であった。この「おわりに」が6月の初校段階で書かれたことを考えれば、この未発見史料に言及するのは日程上かなりきびしかったはずである。著者の矜持と学問的良心に感動を覚えずにはいられない。

 1.本書の研究史理解

終章で安良城が論文をおおやけにした頃の時代背景に触れられており、生産関係や経営体が主眼とされたとある(安良城に従えばウクラード*1)。しかし、村が後景に退いてしまったことについてやや説明不足の感は否めない。というのも、当時村落共同体がネガティブに捉えられていたことと無縁ではないからである。現在でも仲間うちだけが優遇される集団を「○○ムラ」と呼ぶことがあり、あるいは横溝正史の小説で描かれる地縁や血縁によって個人の行動が大きく制約を受けていた世界を想起すれば共同体が後景に退いてしまうのも当然といえる。大塚久雄『共同体の基礎理論』の初版が公刊されたのも1955年であり、資本主義社会成立に共同体の解体が不可欠であるという認識は広く受け入れられていた。村落調査といえばもっぱら農村社会学の独擅場だったことも影響していたのかもしれない。村請制が重視されるようになったのはようやく1970年代に入ってからである。そして村請制が機能しうるのは村に一定の「自律性」が存在したから(水本邦彦など)、あるいは「百姓という身分を与えるのは村(身分集団)である」(朝尾直弘)といった、双方向のせめぎ合いをそこに見出すようになった。これには水林彪のように行政的下請団体(ライトゥルギー的強制団体)だとする反論も見られたが、国家/領主と百姓のあいだに中間団体が介在していたという点では意見の一致が見られる。安良城理論は、それを支持するしないにかかわらず、誰しもが口を揃えて論旨が明解であると認めるところであるが、歴史学の論文も歴史的所産であることを免れ得ない。本書はその点安良城にややきびしい。

 2.本書の論点

 本書の目的は、「具体的な政治過程のなかに個々の検地を位置づける手法を通して」(11頁)、これまでの社会経済史的、土地制度史的アプローチにとどまらず、国家史的・国制史的に太閤検地を位置づけようとするところに置かれている。検地の施行方針が試行錯誤的であり、かつ在地社会とある種契約的関係あるいは緊張関係をはらんだ中で実現したもので、天皇を頂点とする国家秩序を成立させるための「国土」把握であるとしている。すなわち、全国統一の基準による石高の総計が「御前帳」と「郡単位の絵図」として天正19年後半に調えられ、天皇に献上するかたちで、国内統一がなったとする。村の「指出」から検地奉行による丈量、その結果と村側との調整、それをもとに「郡」そして「国」別の石高が「御前帳」に結実する検地帳類の具体的な作成過程と、それが天皇を頂点とする「国家」的再編をもたらしたというシェーマ*2は魅力的ですらある。太閤検地論争では「主役」扱いだった名請人の実態把握はあくまで副次的で、在地社会の自律性に一定程度委ねる、領主側にとっても合理的な支配政策であったことが繰り返し強調される。その在地社会の秩序の安定化のために、境界、とくに「郡」の境界画定により紛争の種を刈り取ることも検地の主眼であった。しかし、在地社会の自力救済原則、自検断が秀吉の検地政策によって完全に否定されたわけでないことは、慶長14年2月2日徳川秀忠黒印状写「覚」に「一、郷中ニて百姓等山問答・水問答に付、弓・鑓・鉄炮にて互致喧嘩候者あらハ、其一郷可致成敗事」(児玉幸多編『近世農政史料集一』3号文書、4頁)とあることから明らかである。「山問答」は山の入会権や境界紛争、「水問答」は水争いであり、「喧嘩」は「弓・鑓・鉄炮」を持ち出す合戦を意味する。刀狩りの実効性を疑わせる文言だが、それは措くとしても、著者も繰り返し述べているように、秀吉の思惑と在地の利害が交わることはついになかった。

検地の施行原則については、文禄3年検地においても、「1反=250歩」という百姓側に過酷な単位にしてみたり、逆に「1間=6尺5寸」と基準を緩めたりしており「検地という政権の基本政策に「完成」型はない」(206頁)と主張する。こうした指摘は安良城のいう一貫した「政策基調」は論理的にも歴史的にもありえなかったという批判となるであろう。

 

村側の「指出」と領主側とのあいだで検地結果の摺り合わせが行われたとの指摘は、速水融の「領主の検地帳と村の検地帳」(『社会経済史学』22巻2号、1956年)の問題意識を連想させる。

 3.史料解釈に関する疑問

本書は太閤検地論争で取り上げられた、よく知られた史料の再解釈を丹念に行うことで、信長家臣時代から晩年に至るまでの検地の具体的様相、とりわけその試行錯誤性をあきらかにすることに成功している。

ただ、気になるところもある。天正11年7月近江国今堀惣中掟目条々写(後掲宮川史料集203号、436頁)の「検地之水帳付候物(ママ)、相さは(「く」脱カ)へき事」の「捌く/裁く」を「複雑に入り組んだ事柄や、面倒なことを整理する」(28頁)として、耕作・経営との解釈を斥ける。しかし『邦訳日葡辞書』には「Sabaqui、qu、aita サバキ、ク、イタ:家の事などを、世話し、処理する」(544頁、下線部引用者)とあり、用例として「イエ、チギョウ、ナンドヲサバク:家や所領などの世話をし、管理する」が挙げられており、「さばく」に限定すれば家政=経営の「より上位の権限」とする解釈は読者にはやや唐突に感じられる。この文書の作成主体「今堀惣中」と名請人の関係が検地以前以後でどう変化し、どう変わらなかったのか踏み込んだ解釈を示して欲しかったが、太閤検地論であり、新書という媒体の性格上無い物ねだりの妄言であることはいうまでもない。

 4.史料の引用について

「おわりに」で「当初は検地、特に太閤検地に関わる重要史料を解説する史料論的なものを考えていたが、『新書』という性格に鑑みてそれもいかがかと断念し、結果として政権の遂行した『太閤検地』を段階的・通時的にみていくというかたちに落ち着いた」(265頁)と本書の執筆方針に逡巡があったことを告白している。後半部の意味において本書は所期の目的を達成したといえる。しかし、前半部については止むを得ないとしても極めて残念でならない。大半の史料の出典については確認できたものの、追跡しきれなかったものもあり、後ろ髪を引かれるような未練を禁じ得ない。もちろん、行論中で紹介された史料の充実度は高く、太閤検地および日本近世史の代表的入門書となることは疑いようもない。

 

現在『豊臣秀吉文書集』が刊行中(文禄元年まで)であり、8月中旬に報道された「堅田文書」など豊臣政権に関わる新史料発見もあることから蛇足ながら太閤検地研究が、いや歴史学研究すべてがその性質上つねに発展途上にあることを強調して、拙い読書感想文を終えることとする。

 

(引用史料についてのメモ、未定稿)

 本書で引用された史料はおなじみのものであり、『大日本古文書 浅野家文書』『滋賀県史第5巻』(ともに国会図書館のサイトからDL可能)、宮川満『太閤検地論第3部 基本史料とその解説』、『日本思想大系22中世政治社会思想(下)』などは公立図書館でも比較的閲覧しやすい。

 

以下、史料の出典について思いつくままに記しておく。

28頁:天正11年7月「近江国今堀惣中掟目条々写」(『太閤検地論第3部』203号、436頁)

128頁:天正19年閏1月13日『新修彦根市史』第5巻、821号、743頁

128頁:天正19年3月11日『新修彦根市史』第5巻、823号、753頁

128頁:『滋賀県史』第5巻、446号、371頁

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130頁:中野『石田三成伝』134~135頁所収(吉川弘文館、2017年)。また、写として紹介されているのは、たつの市立龍野歴史歴史文化資料館『脇坂家文書集成』50号、52頁。

204頁:「かりそめのひとりごと」『和泉市史第2巻』1594号、331~333頁

*1:уклад

*2:Schema、最近は英語の「スキーム」schemeと呼ぶらしい