この制札は天正8年1月17日に播磨国三木城を攻略した直後に発給されたもので、しばしば話題にのぼる史料である。
(木札)
条々
一、あれ地ねんく*3、当年三分二ゆうめん*4、三分一めしおく*5へき事、
一、さくもう*6いせん*7たちかへり*8百姓等、いとなみ*9ひやく*10あるましき事、
付あれ地之百姓共つくりしき*11ニすへき事、
右不可有相違者也、仍而如件、
天正八年
二月三日
藤吉郎(花押)(充所記載なし)
『豊臣秀吉文書集 一』217号文書、72頁。『中世法制史料集 武家家法Ⅲ』950号、247~248頁。
(書き下し文)
条々
一、在〻百姓早く見参すべきこと、
一、荒地年貢、当年三分二宥免、三分一召し置くべきこと、
一、作毛以前立ち帰り百姓など、営み日役あるまじきこと、
つけたり、荒地の百姓ども作職にすべきこと、
右相違あるべからざるものなり、よってくだんのごとし、
(大意)
条々
一、郷村の百姓はただちに出頭すること。
一、荒地となった田畠の年貢は、三分の二を免除し、残りの三分の一を収納すること。
一、耕作前に帰村した百姓などは、日雇いなどで糊口を凌ぐことをしないように。
つけたり、荒地となった郷村の百姓どもに耕作させるように。
以上のことに背いてはならない。以上。
「日役」、つまり日雇い稼ぎを禁じ、耕作するよう命じているところはのちの太閤検地の萌芽が見られ興味深い。日雇い稼ぎを禁じているということは、そういう需要があったことを示している。つまりそうした労働力を吸収する経営体があったとみられ、その経営主体は土豪や地侍であろうことは容易に推察される。秀吉は、すでにこの点に着目していたのかもしれない。