一、右御朱印を被相背、知行配分候儀*1、恣*2之仕立、不可然候事、
一、国中百姓・出家・侍衆ニ銀子被相懸*3、御取候事、一段不可然候事、
一、朝鮮へ出陣も不仕、或懸落*4仕、或者何之御用ニも不立もの*5ニ新知*6被遣候事、
一、恣勘落*7可仕旨、被成(闕字)御諚*8候処、だんぎしよ*9之寺*10へ者新知被遣候、一段不謂*11候事、
(書き下し文)
一、右御朱印をあい背かれ、知行配分候儀、ほしきままの仕立、しかるべからず候こと、
一、国中百姓・出家・侍衆に銀子をあい懸けられ、お取り候こと、一段しかるべからず候こと、
一、朝鮮へ出陣も仕らず、あるいは懸け落ち仕り、あるいは何の御用にも立たざる者に新知遣わされ候事、
一、ほしきままに勘落仕るべき旨、御諚なされ候ところ、談義所の寺へは新知遣わされ候、一段謂われなく候こと、
(大意)
一、右の御朱印の趣旨に背き、家臣に知行地を配分することを、好き勝手に行うことはありえないことです。
一、領国中の百姓・出家・侍に銀子を課し、収納することは格別にけしからぬことです。
一、朝鮮へ出陣もせず、ある者は逃走し、また軍役を勤めることもしない者に新しく知行を与えたりすること(は言語道断のことです)。
一、自由に寺社領の土地を没収するよう秀吉様がお決めになったのに、一乗院に新しく知行を与えたことはまったく理解に苦しむところです。
島津家の仕置が遅々として進んでいない様子が読み取れる。安宅には島津家の態度が、朱印状を反故にしたり、秀吉の決定を蔑ろにしていると映ったようだ。むろん島津氏側が意図的に秀吉の命に背いていたか否かはこの文書からは当然知り得ない。ただ、5日前の書状で、島津義久と義弘の家臣間で意思疎通が図られていないことを安宅は責めていた。
重要な論点のひとつが、下線部である。島津氏は領国中の百姓、寺社、侍衆から銀を徴収しており、それを秀吉が咎めたわけだが、一地一作人の原則によらず賦課していることを咎めているのか、島津氏独自の徴収方法*12を咎めているのかをここから読み取るのは難しい。
また出陣しなかったり、戦場から逃亡したり、まったく務めを果たせない家臣にも知行地を与えている。それだけ島津氏と家臣の関係がフラットなものだったのかもしれない。