一、治部少輔上洛仕候て、廿日経、跡ゟ*1御使者一人京都ニ被差上可然候、義久御隠居之儀、言上之上にて被仰出趣、彼御使者ニ可申下*2候、
一、義久、名護屋*3ゟ直ニ可有御上洛分*4ニ候、然時者、義久御隠居ニ付、(闕字)公儀被(闕字)仰出趣可有之候条、此段早〻貴所御父子*5被聞召届*6可然候間、旁以必御使者可被上置*7候、
(書き下し文)
一、治部少輔上洛仕り候て、廿日経ち、跡より御使者一人京都に差し上せられ然るべく候、義久御隠居の儀、言上の上にて仰せ出さる趣、かの御使者に申し下すべく候、
一、義久、名護屋より直に御上洛あるべき分に候、しかる時は、義久御隠居につき、公儀仰せ出さる趣これあるべく候条、この段早〻貴所御父子聞し召し届けられしかるべく候あいだ、かたがたもって必ず御使者上せ置るべく候、
(大意)
一、三成が上洛してから20日経ち、それ以前から使者をひとり京都に派遣され、もっともなことです。義久の隠居の件、上申した上で秀吉様からお認めになるという趣旨を、その使者に申し下すことでしょう。
一、義久が名護屋から直接上洛することになっています。その際に隠居の件について秀吉様よりご下命があることですので、この件について早くあなた方御父子もお知りになりたいことでしょうから、どちらにしても必ず使者を京都に残しておくようにしてください。
藤井穣治編『織豊期主要人物居所集成』(思文閣、2011年)74頁によれば、秀吉が8月15日名護屋を発ち9月4日伏見に到着していることから文中の「公儀」を秀吉と解した。
隠居は一度秀吉へ上申した上で、下命するという形式を取っており、勝手に隠居することは許されなかったようである。