日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

文禄2年8月16日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その3

一、薩隅諸県当所務、御取ぬかし*1候ハゝ、又一郎様*2御家得*3を御請取候ても、京都御屋形作罷成ましく候、勿論久保御在京ニ物入可申候、其上義久御隠居分ニも、御知行可被遣候、自然*4何れ*5へ御行候共、又ハ朝鮮御陣被引取次第、大仏*6并ニふし見*7之御普請ニ、一稜*8御造作*9可参候、彼是以*10、薩隅諸県当所務、被召取御分別、一種ニ相究候、能〻御思案此時候事、

 

(書き下し文)

一、薩・隅・諸県当所務、お取り抜かしそうらわば、又一郎様御家得をお請け取り候ても、京都御屋形作り罷り成りまじく候、もちろん久保御在京に物入り申すべく候、そのうえ義久御隠居分にも、御知行遣わさるべく候、自然いずれへお行い候とも、または朝鮮御陣引き取られ次第、大仏ならびに伏見のご普請に、ひとかどご造作参るべく候、かれこれもって、薩・隅・諸県当所務、召し取らるべきご分別、一種にあい究め候、よくよくご思案この時に候こと、

 

(大意)

一、薩摩・大隅・日向諸県郡の今年の年貢納入をし損なえば、久保様が家督を継がれても、京都の屋敷を造ることはできないでしょう。もちろん、久保様が京都にいらっしゃるときはいろいろと物入りであるでしょう。その上義久殿にも隠居賄地を与えねばならないでしょう。いずれにせよ、高麗から陣を引き払い次第、方広寺大仏および伏見城の普請に、大いにお働きください。あれこれといっていないで、薩摩・大隅・諸県にある家臣の給地を没収するようお決め下さい。

 

久保の家督相続、京都の島津家屋敷の普請、久保在京中の費用、義久が隠居するために宛行わねばならない土地などにくわえて、方広寺大仏造立や伏見城普請など島津家への負担が重くのしかかることを理由に、安宅は「つべこべ言っていないで、すみやかに家臣の土地を没収して島津家直轄地にせよ」と述べている。安宅は三成の家臣で、秀吉からは陪臣にあたる。つまり島津家より格下なのであるが、このような文面の書状をしたためられるほどの権限を有していたらしい。

 

また、この時期の島津家(に限らずどこの大名も同様だろうが)は大陸に出陣中で、さらに大仏だの城だのの大規模な普請に駆り出され、その負担は相当なものであったろう。もともと台所不如意だったわけで、当然それは検地で「出目」を当て込むしかなかった。

 

それにしても、豊臣政権中枢が家臣給地の「勘落」=没収を強く迫っているのに対し、島津家はなかなか踏み切れない状況がうかがえる。それだけ、島津家家中が水平的な構造だったと考えられる。

 

*1:抜かし

*2:島津久保

*3:

*4:もし、万一

*5:久保が在京の節に物入りであることと、義久に隠居分の給地を与えること

*6:方広寺大仏、上棟が同年9月24日

*7:指月山に造られた最初の伏見城

*8:ひとかど、大いに

*9:ゾウサク、建築作業

*10:あれこれと文句を言ってないで