文禄4年6月29日、石田三成らを奉行とする、日向・大隅・薩摩三国の太閤検地を施行後、島津義久・義弘らに知行目録が与えられた*1。なお、充所は義弘単独である。これを表にまとめた。
Table.1 文禄4年知行方目録帳
註:「計」は計算した合計石高で表記上の合計と130石強の誤差がある
島津義久・義弘直轄地がそれぞれ10万石、島津家の家臣に与えられた「給人領」26万7千石弱と寺社領3千石の合計46万7千石弱が島津家領国となる。
太閤蔵入地1万石の代官を務めるのが石田三成で、それとは別に三成に「私領」として6300石余が曽於郡内に与えられた。また、細川藤孝にも薩摩肝付郡内に3千石余が与えられている。
これを国郡単位に分けたのが次の表である。
Table.2 知行方目録国郡別分布
大隅姶良郡内に太閤蔵入地と義弘直轄地が、曽於郡内に三成領と義久直轄地が、肝付郡内に藤孝領と義久直轄地が、始羅郡に藤孝領と伊集院忠棟領、そして日向諸県郡に義久直轄地と忠棟領が分布している。
これを地図上にプロットしたのが次の図である。
ただ、大隅国は郡域や名称に変遷が見られ、とくに「姶羅(アイラ)郡」と「始良(シラ)郡」のちの「姶良(アイラ)郡」は混同された*2。1095号知行方目録でも両者ともに「姶羅郡」とされている。
いずれも「国史大辞典」より作成
さらに郷村レベルでプロットした。
地図が明治期のものなので、地名を拾いきれてはいない。ただ島津領国内に、太閤蔵入地や石田三成領、細川藤孝領が散在していたことは確認できる。さらに「給人領」27万石弱が加わるので一円的な領国とはいえないことはたしかである。