日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正20年9月10日安田弥市郎宛加藤重次書状を読む

梅北一揆について、これまで秀吉から発せられた文書を見てきたが、出陣中の加藤重次が佐敷城の留守を守っていた弟の安田(井上)弥市郎へ宛てた書状を見ておこう。

 

一揆之儀、無心元存候処ニ、従下又左*1書状来候、九月八日ニ拝見申候、仍佐敷城、梅北宮内左衛門*2本丸迄乗取之由、扨〻留守ゐ*3之者共油断之事、沙汰之限不及申候*4、乍去重而之手柄之段、三国ニ無隠、昔も今もヶ様之事無之候、弥無由断番等火之用心堅可被仰付候、女子共*5之儀者不及申、打入之砌可被討果候之条、不及是非候、不断覚悟*6之前二候之条、曽而さほい*7ニあらす候、御気遣有間敷候、岩千代*8儀ハ其刻手柄をも仕候之哉、又者うち死も仕候之哉、承度候、是又さふらいの表けい*9にて候間、いよ/\不及申候、将又兄弟手柄を仕、清正様御かん*10の通、是又気遣有間敷候、少薄手*11蒙候へ共、けん*12を得申候間、気遣有ましく候、尚委細駒善*13精可申候、恐〻謹言、(尚々書など略)

  九月十日*14   重次(花押)

(折封ウハ書)

「   〆*15      従恵安道吉州*16

  安田弥市郎殿         加与左衛門尉

       まいる               」

 

(書き下し文)

一揆の儀、心もとなく存じ候ところに、下又左より書状来り候、九月八日に拝見申し候、よって佐敷城、梅北宮内左衛門本丸まで乗取るのよし、さてさて留守居の者ども油断のこと、沙汰の限りは申すに及ばず候、さりながらかさねての手柄の段、三国に隠れなく、昔も今も斯様のことこれなく候、いよいよ油断なく番など火の用心堅く仰せ付けらるべく候、女・子共の儀は申すに及ばず、打入のみぎり討ち果てらるべく候の条、是非に及ばず候、不断覚悟の前に候の条、かつて背負いにあらず候、お気遣いあるまじく候、岩千代の儀はそのきざみ手柄をもつかまつりのや、または討ち死もつかまつり候のや、うけたまわりたく候、これまた侍の剽軽にて候あいだ、いよいよ申すに及ばず候、はたまた手柄をつかまつり、清正様御勘の通り、これまた気遣いあるまじく候、少し薄手蒙りそうらえども、言を得申し候あいだ、気遣いあるまじく候、なお委細駒善くわしく申すべく候、恐〻謹言、

 

(大意)

 一揆の件とても心細く思っておりました。下河又左衛門からの書状をこの8日に拝見しました。梅北国兼が佐敷城の本丸まで乗っ取るとは、留守居の者どもが随分と油断していたことで、言語道断です。しかしながら、国兼を討ち取るという手柄を立て、古今東西これに過ぎる例はなく、今後も番方はじめ火の用心などをしっかりするよう、清正様から仰せつかっています。妻子のことは言うまでもなく、一揆との応戦で犠牲になった者のことは、仕方のないことです。常日頃からそう覚悟しているでしょうから、まったく不条理というわけでもありません。ですからお気遣いはご無用です。岩千代がその一戦のさいに、武功を上げたのか、それとも討ち死にしたのかお教え下されたく存じます。これは侍の冗談でして申すまでもないことです。また手柄をお立てになったことであなた様が、清正様にお認めになられたことも、お気遣いはご無用です。少々浅い傷を負いましたが、言葉をかけていただき、ありがとうございます。詳しくは駒善が申し上げます。

 

八代市立博物館未来の森ミュージアム『秀吉が八代にやって来た』図録、2013年、76号文書、108~109頁

「女子共」 や「岩千代」については未詳であるが、生死を気にしたり、武功の有無を尋ねていることから、それぞれ重次の妻子と男子と解釈した。上掲図録から書状の写真を掲げておく。

 

Fig.1 加藤重次書状 『秀吉が八代にやって来た』図録 108頁

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本文より尚〻書の方が長いことがわかる。それだけ思いの丈をしたためたかったのだろう。そのなかで重次は、安田弥市郎には秀吉から馬を授けられることと「金の御さしき(座敷)」で茶を振る舞われることになり、じつに「御うら山敷(おうらやましく)候」とその手柄を褒めちぎっている一方で、妻子の安否について不安の胸の内を繰り返し述べている。遠い異郷の陣中にある者の、複雑な心境がにじみ出る書状である。

 

Fig.2  天正・文禄期唐入関係図  「吉州」の位置 『国史大辞典』より作成

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この書状からは、島津家の危機的状況はうかがえない。とりあえず、一揆の首謀者である梅北国兼を討ち取り、責めを果したためであろう。国兼は島津家の家臣であるので島津家の責任は重大であるのに対して、熊本の留守居は無関係である。

 

遠隔地にもかかわらず、このような書状が届いていることから、唐入にさいして通信手段の確保が行われていたといえる。

 

しかし、翌文禄2年2月には「船頭・水主」の過半数が病死するという事態に陥っている*17。いくら事前の準備が万全であっても、環境が変われば事態も大きく変わりうる可能性は排除できないからである。

*1:佐敷留守居の下河又左衛門元宣

*2:国兼

*3:

*4:言語道断であることはいうまでもない

*5:重次の妻子のことか

*6:日常の心構え

*7:背負う、不本意なことを引き受ける

*8:重次の男子か

*9:剽軽、滑稽なこと、ひょうきん、軽率なこと

*10:勘、よく調べること、理非を糺すこと

*11:浅い傷、深手の対義語

*12:

*13:未詳、この書状を持参した者か

*14:天正20年、文禄改元は12月8日

*15:封緘をあらわす「しめ」の略字

*16:Fig.2参照

*17:島津家文書369号