急度被仰遣候、今度島津家中之者、不出陣族相改被遣候処、其内梅北宮内左衛門尉*1と申者、遅渡海之儀令迷惑*2、佐敷*3辺企一揆之由、義久*4名護屋*5ニ相詰、則言上候、為御成敗、即刻御人数被差遣候、然者為留守居者梅北可刎首由、義久も申遣候、兵庫頭*6有其地*7、無心元可存候条、如右御人数被遣候間、早速可為御成敗候条、心安可存通可申聞候也、
六月十八日 御朱印
加藤主計頭*8とのへ
鍋島加賀守*9とのへ
『豊臣秀吉文書集 五』4163号文書、219頁
(書き下し文)
急度仰せ遣わされ候、このたび島津家中の者、出陣せざる族あい改め遣わされ候ところ、そのうち梅北宮内左衛門尉と申す者、渡海に遅れるの儀迷惑せしめ、佐敷あたり一揆を企てるのよし、義久名護屋にあい詰め、すなわち言上候、御成敗のため、即刻御人数差し遣わされ候、しからば留守居者として梅北首を刎ねるべきよし、義久も申し遣わし候、兵庫頭その地にあり、心元なく存ずべく候条、右のごとく御人数遣わされ候あいだ、早速御成敗たるべく候条、心安く存ずべく通りに申し聞くべく候なり、
(大意)
申し入れます。このたび島津家家臣の者のうち、出陣しないという連中について調べるため使者を派遣したところ、梅北国兼という者が唐入に遅れたことで血迷い、佐敷で一揆を起こしたとのしらせを、名護屋にいた島津義久がすぐさま報告しました。一揆討伐のためすぐに軍勢を差し向けました。ところが、佐敷城内の留守居のものが梅北の首を刎ねると、義久が申してきました。義弘は出陣していますので、さぞかし不安でありましょう。ですからすでに述べたように軍勢を差し向け、早速成敗しますので安心するように伝えさせます。
この朱印状は、朝鮮半島に出陣している加藤清正・鍋島直茂に、彼らの領国で起きた一揆は無事鎮めたので、安心して戦を継続せよと命じたものである。同日付で毛利輝元、小早川隆景、立花宗茂、小早川秀包、石田三成、増田長盛らにも発している*10。清正は1万、直茂は1万2千人*11の軍勢を連れて出陣中であるから、留守中のこの蜂起はかなりの動揺をもたらしたであろう。
①島津義弘は6月時点で対馬に到着したのみで*13、本家義久からの船が1艘も来ない状態。一方義久は名護屋に在陣。
②朝鮮に出陣しようと平戸まで来た梅北国兼*14は、出兵に反対して引き返し、さらに加藤清正領地の佐敷城を占拠してしまった。
③佐敷城は清正の重臣加藤重次の居城。重次もこの時は出陣中。
清正の領国肥後隈本、直茂の領国肥前佐嘉の位置は下図の通りである。
結局のところこの一揆は三日で鎮圧されるが、これを機に薩摩・大隅・日向の3ヶ国は太閤検地を受けることになる。
梅北一揆は、大崎葛西の一揆や肥後の国人一揆のような中世的な勢力による、豊臣政権への不服従と考えられているが、かえって中央政権による介入を決定的にしたものといえる。しかし、秀吉の心胆を寒からしむるには十分過ぎるものであったとはいえるだろう。