(牛王宝印貼紙)
「左之書付之趣連判之者共
違背之輩ハ血判之通可蒙
神罰者(成脱カ)仍如件
熊野牛王
(割印)」
一、大仙陵*1分水*2石片*3下リ*4致出来候故、当年舳松村*5者旱損夥敷致出来候、依之分石平均致古法之通*6ニ相守申
度、当村惣百姓所存相堅メ候、然共舳松者分石之
片下り有之候事を幸之事と存、古法之通平均致候事、
不得心之趣ニ相聞江候、此以後舳松之所存之通ニ致置候而者、毎年当村旱損場所ニ多致出来、惣百姓
候池水之儀、舳松村計為致自由*9可申道理も有之間敷
存候、万一(闕字)御役所*10之及御沙汰候共、此事此
侭ニ致置かたく候、尤村方之儀諸事他村江不洩様ニ
相慎可申候、為後日庄屋年寄惣百姓申合連印之上
血判致置申候、若右連印之内別心之者有之者神罰可蒙者也、
宝暦十年辰八月 中筋村*11
仁右衛門(印)(血判)
(以下33名連印血判略)
中筋村御会所*12(書き下し文)
(牛王宝印貼紙)
「左の書付のおもむき、連判の者ども違背の輩は、血判の通り、神罰をこうむるべきものなり、よってくだんのごとし、
熊野牛王
(割印)」
ひとつ、大仙陵分水石片下り出来いたし候ゆえ、当年舳松村は旱損おびただしく出来いたし候、これにより分石平均古法の通りにいたし、あい守り申したく、当村惣百姓所存あい堅め候、しかれども舳松は分石の片下りこれあり候ことをさいわいのことと存じ、古法の通り平均致し候こと、得心せざるのおもむきにあい聞こえ候、これ以後舳松の所存の通りに致し置き候ては、毎年当村旱損場所に多く出来いたし、惣百姓はなはだ難儀におよび申すべきほか、去年も右樋入用銀など多く差し出し置き候池水の儀、舳松村ばかり自由にいたさせ申すべき道理もこれあるまじく存じ候、万一御役所の御沙汰におよび候とも、このことこのままに致し置きがたく候、もっとも村方の儀諸事他村へ洩れざるようにあい慎しみ申すべく候、後日のため庄屋・年寄・惣百姓申し合わせ、連印の上血判致し置き申し候、もし右連印のうち、別心の者これあらば神罰こうむるべきものなり、
これは大仙陵の堀から水を引く際の分配方式をめぐって、和泉国大鳥郡中筋村と同郡舳松村が争ったときに中筋村で作成された起請文である。下線部にあるように、この起請文の趣旨は村方のことは他村へ漏らさぬよう慎みますということである。ただ後述するように1世紀以上前の文禄4年に家数が125軒であることを考慮すると、この34名は中筋村の指導的地位にあったと考えることができる。そうすると文中の「惣百姓」の意味も百姓全員ではなくなってくる。
充所の「中筋村御会所」は庄屋の役宅と考えるより、寄合に出席できる構成員が集まる場と解した方がいいかもしれない。それにしても18世紀半ばに血判の起請文とは少々意外である。
両村の位置を示しておこう。
「日本歴史地名大系」大阪府より作成
Fig.2 延宝5年8月4日「中筋村田畑地並絵図」
Fig.3 上図の拡大図1
「田出井」は田出井古墳のことで、反正天皇陵である。そこから用水を引いているが、荒廃地が比較的集中している。
Fig.4 拡大図2
図の①によれば、文禄4年に「石田杢殿」つまり石田正澄が検地し、村高が2583石余とされたが、30石分が「永荒」、つまり荒廃地となっており*13、家数が125軒*14とある。「永荒」が東部に集中していることもわかる*15。
また、イ、ロに見られるように舳松村分の土地が12町、253石強が中筋村の領域に「入組」んでいた。
以上、中筋村と舳松村の水争いを見てきたが、旱損地であったことによる。
大仙陵の用水利用を示す絵図は隣村の和泉国大鳥郡湊村にも残されている。またの機会に取り上げたい。