日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年6月12日石田三成宛豊臣秀吉朱印状を読む

忍之城*1儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命迄儀被成御助候様与、達而色々歎*2申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共定一万計も可有之候歟、然者憐*3郷可成荒所候間相助、城内小田原*4ニ相籠者共足弱*5以下者端城*6へ片付、何茂*7請取候、岩付之城*8同前ニ鹿桓*9*10結廻*11入置、小田原一途之間者、扶持*12方可申付候、其方非可被成御疑候間、別奉行不及被遣之候、本城*13請取急与可申上候、城内家財物共不散様、政道*14以下堅可申付候也、

  六月十二日 (秀吉朱印)

      石田治部少輔とのへ*15

 

            名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 四』3267号文書、183頁

 

(書き下し文)

忍の城の儀、御成敗を加えらるべき旨、堅く仰せ付けられ候といえども、命までの儀御助けなられ候ようと、たって色々歎き申すよし候、水責めに仰せ付けられ候は、城内の者ども、定めて一万ばかりもこれあるべく候か、しからば憐郷荒所になるべく候あいだあい助け、城内小田原にあい籠る者ども、足弱以下は端城へ片付け、いずれも請け取り候、岩付の城同前に鹿桓結廻入れ置き、小田原一途のあいだは、扶持方申し付くべく候、その方の非、御疑いならるべく候あいだ、別して奉行これを遣わさるに及ばず候、本城請け取りきっと申し上ぐべく候、城内家財物共散らざるよう、政道以下堅く申し付くべく候なり、 

 

(大意)

忍城を落としなさいと、きびしく命じました。しかし、命をお助け下さいと、歎願してきたとのことです。水攻めを命じたのは、城内に一万人はいるに違いないから、郷村が荒れる違いないので、それではあまりに気の毒で手を差し伸べようとしたからです。忍城内や小田原城に立て籠もっている者のうち、足軽以下は支城へ移動させ、忍城小田原城を落城させるようにしなさい。岩付城は忍城と同様に鹿垣をめぐらせ、小田原北条のためと必死に立て籠もっている者へは、食糧をしっかり与えるよう命じ、籠絡しました。このまま落城できなければ、その方の非を疑うようになるでしょう。しかし、別の指揮官を派遣することはしません。忍城を落城させると必ず報告するようにしてください。落城の際城内が散らかっていることがないように、兵士への仕置を必ず行うよう、ここに命じます。

 

忍城では石田三成による水攻めが行われていた。当時、3つの城のうち岩付城のみが降伏していた。

 

文面は複雑で、当人たちが当然知っているものとして書き記さなかった文言もわかりにくく、逐語的に解釈しても泥沼に引き込まれそうである。おそらく、秀吉が三成に忍城落城をうながした朱印状であろう。

 

岩付城、忍城小田原城の落城月日

落城 月日    
小田原城 7月13日 秀吉入城
忍城 7月14日 以降
岩付城 5月20日  

 

さて「足弱」の解釈がここで問題となる。というのも足軽を指すなら戦闘員の扱いですむが、老人・女性・子どもとなると籠城する者が戦闘員だけでなく、城下はもちろん周辺郷村から多くの者が城に逃げ込んだことになるからだ。この違いは大きいが、この文書だけではどちらとも判断しがたい。

 

*1:武蔵国埼玉郡

*2:歎願すること、「侘言」と似たニュアンス

*3:

*4:相模国足柄下郡/北条氏の呼称は「西郡」

*5:足軽、または老人・女性・子ども

*6:本城に対する支城、枝城

*7:忍城小田原城

*8:武蔵国埼玉郡

*9:

*10:シシガキ、本来は竹や枝を編んでつくった獣害防止のバリケード、ここではそれを軍事転用したもの

*11:結界

*12:助けること、ここでは籠城していた兵たちに食糧を与えることの意か

*13:忍城

*14:取り仕切ること、禁止すること、仕置きすること

*15:石田三成