「軍師官兵衛」40話の「官兵衛紀行」にて黒田長政宛の朱印状が紹介された。
Fig.1
これを以下のように説明している。
Fig.2
(ナレーション)
秀吉が長政に送った①手紙には、②官兵衛の働きで勝利したことが書かれています
では読んでみよう。
(切紙 檀紙 縦21.1*横62.4cm)*1
為御陣*2見廻使者
殊道服*3十到来悦
思召候誠切〻懇志候
仍小田原之儀北条一類被刎首御本意*4無残所被仰
付候乍次至于会津被移
御座出羽奥州置目被仰
付頓而可有帰洛候今度之
首尾勘解由*5渕底*6候条
委曲可申遣候猶大谷刑部少輔*7
可申候也
七月十日(秀吉花押)
黒田甲斐守とのへ*8
(書き下し文)
御陣の見廻として使者、ことに道服十到来し、よろこび思し召し候、まこと切〻なる懇志に候、よって小田原の儀、北条一類首を刎ねられ、御本意残る所なく仰せ付けられ候、次ながら会津にいたり御座移られ、出羽・奥州置目仰せ付けられ、やがて帰洛あるべく候、今度の首尾、勘解由渕底に候の条、委曲申し遣わし候、なお大谷刑部少輔申すべく候なり、
(大意)
陣中見舞いとして使者を遣わされ、とくに道服を十いただきありがとうございました。実に行き届いたご厚意と感じました。さて、小田原の件ですが、北条氏一門の者の
首を刎ね、徹底的にこちらの趣旨を命じたところです。
次は会津へ移り、出羽・奥州の仕置を行ってからすぐに京都へ帰るつもりです。このたびの成功、黒田孝高が深く関わっていますので、詳細を使者に言い含めました。なお、大谷吉継が口頭にて申し上げるでしょう。
①について、書き出しに見舞いの礼が書かれており、内容的にも手紙つまり書状といえばいえるが、朱印が据えられていることを無視するわけにはいかないだろう。尊大な表現が散りばめられており、書止文言も「候也」である。したがって「手紙」ではなく朱印状とするのが筋であろう。
次に②の「官兵衛の働き」はどうだろうか。「渕底」は「物事の究極のところ/奥まで極めること」*9で、副詞として「詳しく」という意味もある。そもそも「渕」とは川底の深くなっている部分をいう。その深くなっているところの水底、つまり「奥深く」というのが字義通りの意味である。「働き」といえばそうだが、秀吉が「働」という直截な表現を避け、「渕底」という見慣れない、難しい言葉をしたためさせた含意を読み損なう、乱暴な読み方に思われる。日本語に対してやや不感症気味なのかもしれない。
参考のため、秀吉の旅程を以下に掲げた。
Table.1
秀吉 天正18年7月10日前後の居所 | |||
天正18年 | 3月 | 29日 | 山中城 |
4月 | 1日 | 箱根峠 | |
2日 | 湯本 | ||
4日 | 箱根山荘 | ||
小田原在陣 | |||
7月 | 17日 | 小田原発 | |
19日 | 江戸着 | ||
20日 | 江戸発 | ||
26日 | 宇都宮着 | ||
8月 | 4日 | 宇都宮発 | |
6日 | 大田原発 白川着 | ||
8日 | 陸奥長沼発 | ||
9日 | 会津着 | ||
13日 | 会津発 | ||
15日 | 宇都宮発 古河着 | ||
18日 | 小田原着 | ||
20日 | 清見寺・駿府着 | ||
23日 | 遠江掛川 | ||
30日 | 佐和山 | ||
9月 | 1日 | 京都着 | |
藤井穣治編『織豊期主要人物居所集成』68頁(思文閣出版、2010年)より作成 |