日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年7月10日黒田長政宛豊臣秀吉朱印状を読む

軍師官兵衛」40話の「官兵衛紀行」にて黒田長政宛の朱印状が紹介された。

 

Fig.1

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これを以下のように説明している。

Fig.2

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(ナレーション)

秀吉が長政に送った①手紙には、②官兵衛の働きで勝利したことが書かれています

 

では読んでみよう。

 

 

(切紙 檀紙 縦21.1*横62.4cm)*1

 

為御陣*2見廻使者
殊道服*3十到来悦
思召候誠切〻懇志候
仍小田原之儀北条一類被

刎首御本意*4無残所被仰
付候乍次至于会津被移
御座出羽奥州置目被仰
付頓而可有帰洛候今度之
首尾勘解由*5渕底*6候条
委曲可申遣候猶大谷刑部少輔*7
可申候也
 七月十日(秀吉花押)
    黒田甲斐守とのへ*8 

 

(書き下し文)
御陣の見廻として使者、ことに道服十到来し、よろこび思し召し候、まこと切〻なる懇志に候、よって小田原の儀、北条一類首を刎ねられ、御本意残る所なく仰せ付けられ候、次ながら会津にいたり御座移られ、出羽・奥州置目仰せ付けられ、やがて帰洛あるべく候、今度の首尾、勘解由渕底に候の条、委曲申し遣わし候、なお大谷刑部少輔申すべく候なり、

 

 

(大意)
陣中見舞いとして使者を遣わされ、とくに道服を十いただきありがとうございました。実に行き届いたご厚意と感じました。さて、小田原の件ですが、北条氏一門の者の
首を刎ね、徹底的にこちらの趣旨を命じたところです。
次は会津へ移り、出羽・奥州の仕置を行ってからすぐに京都へ帰るつもりです。このたびの成功、黒田孝高が深く関わっていますので、詳細を使者に言い含めました。なお、大谷吉継が口頭にて申し上げるでしょう。

 

 

①について、書き出しに見舞いの礼が書かれており、内容的にも手紙つまり書状といえばいえるが、朱印が据えられていることを無視するわけにはいかないだろう。尊大な表現が散りばめられており、書止文言も「候也」である。したがって「手紙」ではなく朱印状とするのが筋であろう。

 

次に②の「官兵衛の働き」はどうだろうか。「渕底」は「物事の究極のところ/奥まで極めること」*9で、副詞として「詳しく」という意味もある。そもそも「渕」とは川底の深くなっている部分をいう。その深くなっているところの水底、つまり「奥深く」というのが字義通りの意味である。「働き」といえばそうだが、秀吉が「働」という直截な表現を避け、「渕底」という見慣れない、難しい言葉をしたためさせた含意を読み損なう、乱暴な読み方に思われる。日本語に対してやや不感症気味なのかもしれない。

 

 

参考のため、秀吉の旅程を以下に掲げた。

 

Table.1

秀吉 天正18年7月10日前後の居所
天正18年 3月 29日 山中城
  4月 1日 箱根峠
    2日 湯本
    4日 箱根山
      小田原在陣
  7月 17日 小田原発
    19日 江戸着
    20日 江戸発
    26日 宇都宮着
  8月 4日 宇都宮発
    6日 大田原発 白川着
    8日 陸奥長沼発
    9日 会津
    13日 会津
    15日 宇都宮発 古河着
    18日 小田原着
    20日 清見寺・駿府
    23日 遠江掛川
    30日 佐和山
  9月 1日 京都着
              藤井穣治編『織豊期主要人物居所集成』68頁(思文閣出版、2010年)より作成

 

 

 

*1:形態、料紙、法量は福岡市博物館『黒田家文書』第1巻、本編、199号文書、417頁、1999年によった

*2:秀吉軍の陣、みずからの軍勢に「御」をつける尊大な表現

*3:法衣の一種

*4:秀吉の本意、「御陣」同様みずからに敬意を表す尊大な態度が見える

*5:黒田孝高

*6:物事の奥底、詳しい

*7:大谷吉継

*8:黒田長政

*9:上掲書、419頁、註8の記述をここで掲げた