日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

改元月日を認識することのむずかしさ

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上の写真は大河ドラマのひとこまであるが、初歩的な誤りを犯していることにお気づきだろうか。

 

書状に年代を記すことはないし、まして文頭に書くなど礼儀知らずもはなはだしい、という点には目をつぶるとしても、致命的な過ちが見られる。それはこの手紙を書いた者が、未来を予見してしまい、それを記してしまったことである。

 

嘉永安政改元されたのは11月27日で、この手紙の日付は2月27日である。したがって2月の時点で安政になっていることはない。11月4日と5日に東海地震と南海地震が連続して起きており、これらが改元への引き金になったといわれている*1。そして、翌2年安政地震が江戸を直撃する。嘉永7年に起きた東海・南海地震を「安政東海地震、「安政」南海地震と呼ぶ習慣*2は、前回紹介した太政官布告にもとづき、改元年を元日まで遡ることによっている。

 

それらはあくまでも明治以降に名付けられたもので、同時代史料に「安政」とあるはずがないのであり、嘉永7年が安政改元されたため、遡って元日から安政元年とするのは明治以降の発想になる。こうしたことからこの手紙は明治以降の人間が書いたものという結論にいたる。

 

こうした時代考証という場面でも改元に対する無関心さが露呈するので、まして一般に正確性を期すというのは大きな負担になりかねない。人員も予算も潤沢な組織すら和暦の正確な扱い方ができていない事実は示唆的である。

 

*1:自然災害のみならず外国船が多数押し寄せたことも理由と考えられている。この際津波によって大破した外国船もあった

*2:当ブログはこうした命名法には反対である。同時代の表現を反映した「嘉永7年東海地震」「嘉永7年南海地震」と呼ぶべきと考える