出典 佐藤進一『新版古文書学入門』口絵40頁、68号文書、法政大学出版局、2003年
借用申米之事
合三石者
右に如申定それかしの子共のはゝをしつもつ*1に
慶長三年より同四年まて指おき申候
いたし可申候若又くらかへ*4なとをいたし候ハゝ
米之事ハわひ事申候とも女事ハ
しよさい*13申間敷候後日ため仍如件
慶長三年三月十四日 隼人(花押)*14
(略押)*15
ほつち新左衛門尉殿*16
まいる
(書き下し文)
借用申す米のこと
合わせて三石は、
右に申し定むるごとく、それがしの子共の母を質物に、慶長三年より同四年まで指しおき申し候、それがし手前出でき候ハゝ侘言申し、召し出し申すべく候、もしまた蔵替などをいたし候ハゝ、かの米一倍にて六石あい済まし申すべく候、如何様なる徳政入り候とも、我等折角の時分と申し、殊に御国替のゆえに借り申すあいだ、米のことは侘言申し候とも、女のことは神妙に奉公いたさせ申すべく候、如在申すまじく候、後日のためよってくだんのごとし、
(大意)
借用米証文
合計3石については
ここで決めたとおり、子どもの母親を質の担保として、慶長三年より四年まで差し出します。当方の家計に出費が多いことから*17お願い申し上げ、女を奉公に差し出します。もし主人を変えるなどの不調法がありましたら、お借りしていますお米の2倍にあたる6石をお返しいたします。どのような徳政が行われたとしても、当方が苦しんでいると申し上げ、とくに国替の御時節にお借りいたしましたので、米のことはお願いしましたが、女についてはきちんと奉公させます。あれこれと申し上げることもございません。後日の証拠のため。以上。
発智氏は文明年間から、越後国守護の上杉氏の家臣だったようで*18、越後守護代の長尾氏と戦い、関東管領職を奪うことになる上杉憲房から感状を与えられている*19。このことから、越後の有力国人だったと推測される。その後、長尾氏が上杉氏となるころ重臣になったのであろうが、史料的には確認できない。
さて、本文を読んでみよう。慶長3年から4年までの2年間、米3石を借りた際の証文である。利息分は担保として差し出した女性の奉公、つまり労働で支払うことになるようだ。もちろん給金は出ないが、食事が提供されたかどうかは記載されていないので、当時の習慣に準じていたのだろう。奉公をきちんとしなかった場合は、元利合計で2倍にあたる6石を返済するとある。年率50%ということになる。
豊臣政権は対外戦争のさなかにあって、戦闘員の確保が急務であったし、各大名も軍役を果たすため武家奉公人を欲していた。また在地では、百姓の逃散がしばしば見られた。
Fig.1 合字「こと」
ちなみに変体仮名のUnicode一覧を掲げておく。
Fig.2 Unicodeにおける変体仮名
そば屋の暖簾や「○○さん江」の「え」も電子化済みということになる。あとは「御手茂登」(おてもと)と「う奈ぎ」の「な」がほしいところだ。
*1:質物
*2:手前、家計や収入の意
*3:侘言
*4:蔵替、勝手に主人や居所を変えること
*5:衍字、「一ち」で「いち」と読む
*6:1倍は現在の2倍の意
*7:徳政
*8:苦労する
*9:合字、Fig.1参照、またこちらも参照されたい
電子書籍時代の史料翻刻(10) ニ而江茂者与越より 外字は是か非か? | 情報史料学研究所ブログ
*10:国替、上杉景勝の越後から会津への転封のこと
*11:シンビョウ、神妙
*12:奉公
*13:如在、手落ち
*14:上杉家中の下級武士か
*15:質入れされた女性の略押か
*16:発智新左衛門尉、上杉家家臣
*17:売券や借用証文では古代末期から近代にかけて「要用あるにより」「よんどころなく」といった文言が見られるが、どうも定型句、つまり決まり文句だったようで、具体的な事情を述べていると解釈するのはむずかしそうだ
*18:『大日本史料』8編、文明5年6月27日条
*19:同9編、永正7年4月20日条、いずれも東京大学史料編纂所「大日本史料総合データベース」による
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