日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

「鎌倉時代から姓を名乗るのをやめ、名字のみになった」のか?

先日名前に特化したバラエティー番組を見た。そこで「平安時代に姓と名前のあいだにある「の」が、鎌倉時代には名字を名乗ることにより消えた」という話を聞いた。バラエティー番組に対して大人げないとは思うが、史料的にはむしろそうでないことを示す例がいくつも確認できるので今回検討してみたい。

 

当該番組の主張は以下の通りである。

 

Fig.1

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豊臣秀吉をはずしたのは賢明な判断である。「豊臣」は賜姓されたものなので「とよとみ【の】ひでよし」と読むのが正しいことになる。一方千利休は「せん【の】りきゅう」とされる一方、千宗易は「せんそうえき」「せん【の】そうえき」とわかれるので「千」が姓なのか名字なのかにわかに判断することはできない。

 

Fig.2  出典:Fig.2~4 佐藤進一『新版古文書学入門』口絵18~9頁

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この文書は関東下知状と呼ばれる文書で、「関東」つまり鎌倉幕府の下知を執権・連署が署名して伝えるものである。

 

イは「陸奥守平朝臣(花押)」(ムツノカミタイラ【ノ】アソン)、ロは「相模守平朝臣(花押)」(サガミノカミタイラ【ノ】アソン)とあるように、「官職名+姓(北条氏は平氏)+朝臣(五位以上)+花押」と署名する。イは執権北条貞時、ロは連署北条宣時で、執権より連署の方が上位に署名している。というのも、文書の差出人が複数である場合、日付の真下が最下位で、奥に行くほど上位であるとされているからである。つまり武家政権の序列は逆なのに、署名では連署の方が上位とされているのである。こうした事情については別の文書の解説であるが、佐藤上掲書、142頁、註23に詳しい。

 

傍線部Aは「鎌倉殿の仰せにより下知くだんのごとし」とあるように、将軍である「鎌倉殿」=久明親王の仰せにしたがって、命令するという意味である。

 

 Fig.3

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こちらも関東下知状で、①「前武蔵守平朝臣」(サキノムサシノカミタイラ【ノ】アソン)②「相模守平朝臣」(サガミノカミタイラ【ノ】アソン)とある。北条氏のほとんどが相模守や武蔵守に任じられているので、誰だかこれではわからないため、花押から①執権北条貞時連署北条宣時と判別するしかない。

 

Fig.4

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この文書はA「ゆつりわたす」C「ゆつりわたすところくたんのことし」とあるように、元応1年に仮名で書かれた譲状である。

 

その3年後の元亨2年に「修理権太夫」と「相模守」が、傍線部B「この状にまかせ領掌せしむべきのよし、仰せにより下知くだんのごとし」と仮名で書かれた譲状の内容を保証する、お墨付きの文言が漢字で書かれている。

 

私的な領域では仮名が、公的な文言が漢字で書かれているところは興味深い。

 

この「修理権太夫」=連署北条貞顕、「相模守」=執権北条高時の右肩に「名字+実名」が書かれているが、これは後代のものだろう。なお、このように全面をのり付けした貼紙を「押紙」といい、一部をのり付けした「付箋」と区別する。

 

以上のことから、鎌倉後期にあっても「名字+実名(諱)」と名乗るとは限らないことがわかる。

 

また、幕府の職名である「執権」「連署」という肩書でなく、律令制上の官職を名乗っていることと、署名の序列が幕府の職制上の序列とは逆であることが特徴的である。

 

なお履歴書などの記名欄に「氏・名」「姓・名」とあるのは、厳密には「名字・名」になる。もし織田信長徳川家康が生きていれば「氏名」欄に「平信長」「源家康」と記入するだろう。

 

ちなみに同じ国司の長官=「守」でも、大上中下国により、位が異なるので注意を要する。

 

Fig.5 官位相当

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                     国史大辞典』より作成

 

 

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