「大日本史料」編纂は明治政府が六国史の後継事業としてはじめたものであるが、編年史料集としてもっとも網羅的なものである。「大日本古文書」や「大日本古記録」などをもとに編まれた、巨大な年表をかねた史料集といえる。
もっともそれ故に、慶安4年までを12編に分けてはいるものの、事業の完成は1世紀以上経た現在も完結していない。また13編以降の新設もあるやに仄聞するが、いずれにしろ事業が完結するには、さらに数世紀は要するであろう。
さて天正19年2月28日に千利休が切腹させられた事件について「大日本史料」の草稿*1では次のような綱文と註が付されている。
綱文
是より先、秀吉、千宗易(利休)を和泉堺に追放し、其寿像を一條戻橋に梟す、是日、宗易をして、自殺せしむ
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1591/16-5-2/4/0041?m=all&s=0041&n=20
晴豊記時慶記兼見記皆ソノ死ヲ云ハス鈴木新兵衛書状廿九日ニ在リ又未タソノ死ヲ知ラサルニ似タリ今多聞院日記松井家譜ニ従ヒ此日ニ叙ス
晴豊記、時慶記、兼見記ともに死罪とはしていない。29日付の鈴木新兵衛書状にその記述があるものの死罪であるとは知らないようだ。多聞院日記、松井家譜により28日に記す。
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1591/16-5-2/4/0044?m=all&s=0041&n=20
では伊達政宗家臣鈴木新兵衛が、同じく伊達家重臣の石母田景頼に宛てた書状の該当部分を読んでみよう。
(前略)
一、茶湯之天下一宗易*2、無道之刷*3年月連続之上、御追放、無行方*4候、然処ニ右之宗易、其身之形を木像ニ作立、紫野大徳寺ニ被納候ヲ、殿下樣*5より被召上、聚楽之大門もどり橋と申候所ニ、張付*6ニかけさせられ候、木像之八付*7、誠々前代未聞之由、於京中申事に候、見物之貴賤無際限候、右八付之脇ニ、色々ノ科共被遊、御札*8ヲ被相立候、おもしろき御文言、不可勝*9計候、(以下略)
『大日本古文書・伊達家文書之二』80~81頁
頭注
「千利休ノ追放」「秀吉、利休ノ木像ヲ磔ス」
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0302/0080?m=all&s=0079&n=20
(書き下し文)
ひとつ、茶湯の天下一宗易、無道の年月、連続するをはらうの上、御追放、行き方なく候、しかるところに右の宗易、その身の形を木像に作り立て、紫野大徳寺に納められ候を、殿下樣より召し上げられ、聚楽の大門戻橋と申し候ところに、張り付けに懸けさせられ候、木像の八付、誠に誠に前代未聞のよし、京中において申すことに候、見物の貴賤際限なく候、右八付の脇に、色々の科とも遊ばれ、御札をあい立てられ候、おもしろき御文言、勝さるべからざるばかりに候、
(大意)
ひとつ、天下一の茶人である千利休による無道の年月を清められるため追放となり、その行方は知れません。さらに、利休が自身の姿を木像とし、大徳寺に奉納したものを、関白様に召し上げられ、聚楽第の大門前にある一条戻橋というところで磔刑にされました。木像を磔刑に処するなどということは前代未聞のことだと、京都中で評判になっています。見物する者は身分を問わず、際限ないほどです。その脇には、利休の罪科が制札に書かれ、たてられています。おもしろい秀吉様のお言葉、これに勝るものはありません。
「伊達家文書」の編者も頭注にあるように切腹させたとはしていない。
多聞院日記2月28日条は次のように記す。
一、スキ*10者ノ宗益*11今暁腹切了ト、近年新儀ノ道具共用意シテ高直ニウル、マイス*12ノ頂上也トテ歟、以外*13関白殿御腹立、則ハタ物ニト被仰出テ、色〻トワヒコト*14ニテ、寿像ヲ作テ、紫野ニ置テハタ物ニ取上了、住屋検断、主ハ高野*15ヘ上ト、ヲカシキ*16事也、誠悪行故*17也、
売僧と呼ばれる悪徳商法に対して秀吉が立腹し、磔刑に処すと命じたのに対して、「侘言」により高野山へ登ったとある。しかし「今暁腹切しおわんぬと」と「ト」があるように切腹したと伝聞によって知ったようである。また、侘言(誰のかは不明)により寿像を磔刑に処し、屋敷を破却し、高野山へ登ったという風聞も耳にしたようで、「ヲカシキ事」と記している。
京都の公家の日記には見えず、奈良の僧が記録している点は重要である。同じ同時代史料とはいえ、その信憑性は一様ではない。
ともかく、草稿段階の「大日本史料」=「史料綜覧」では消極的ながらも天正19年2月28日に利休が切腹したとするが、「大日本古文書・伊達家文書」ではそこまで踏み込んでいないようだ。