寺内織部方下国候之条、令啓候、仍去廿一日於柳瀬*1表合戦様子并柴田*2切腹相果趣、委細景勝へ申入候之間、委不及申、然者賀州・能州・越中属一篇候之条、国之置目等為可申付、至金沢城令逗留候、就中柴田謀反之刻、秀吉至越前表於令乱入*3者、可有御手合*4之由、深重*5雖承候、其御手筈相違候条、最前互誓紙取替申談儀、反古ニ罷成候、前後之固候間、其方御存分通、急度承可随其候、聊不可存疎意*6候、尚巨細織部方口上ニ申達候条、懇*7被聞召届、景勝へ可被申入事専用候、恐〻謹言、
(貼紙)
「天正十一年」
卯月廿九日 秀吉(花押)
直江山城守*8殿
狩野讃岐守*9殿
御宿所
国立歴史民俗博物館『日本の中世文書』5-18号文書、141頁
(書き下し文)
寺内織部方下国候の条、啓せしめ候、よって去る廿一日柳瀬表において合戦の様子ならびに柴田切腹しあい果つるおもむき、委細景勝へ申し入れ候のあいだ、くわしく申すにおよばず、しからば賀州・能州・越中一篇に属し候の条、国の置目など申し付くべきため、金沢城にいたり逗留せしめ候、なかんずく柴田謀反のきざみ、秀吉越前表にいたり乱入せしむるにおいては、御手合あるべきの由、深重承り候といえども、その御手筈相違候条、最前互いに誓紙取り替わし申し談ずる儀、反古に罷り成り候、前後の固めに候あいだ、その方御存分どおり、急度承わりそれに随うべく候、聊かも疎意にぞんずべからず候、なお巨細織部方口上に申し達し候条、ねんごろに聞こし召し届けられ、景勝へ申し入らるべくこと専用に候、恐〻謹言、
(大意)
使者として寺内織部が下向する旨手紙をもって申し上げます。去る21日近江柳瀬での合戦および柴田勝家が切腹したことを詳しく景勝へ申し入れているのでここでは省略します。さて加賀、能登、越中はすべて支配下に置き、領国の仕置を定めるため金沢城にとどまらせています。なかでも柴田が挙兵した際、越前に到着し敵が攻めてきた場合は合力すると何度もうかがいましたが、その手筈を誓紙で取り交わしました件、反故になってしまいました。領国の守備を固めるため、お考え通り必ずしたがってください。少しもおろそかにすることのないようにしてください。詳しくは織部が申し上げますので、よくお聞きになり、景勝へ必ずお伝えください。謹んで申し上げました。
寺内織部は天正8年6月9日勝興寺宛教如書状写に「寺内織部佑」として登場する、本願寺の使者であろう*10。
「日本歴史地名大系」滋賀県より作成