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japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
一、ねんぐのおさめやうの事、田からざるまへに田がしら*1にて見はからい、免*2の儀相さだむべし、若きう人・百性ねんちかい*3の田あらハ、升づきいたし免さため可申候、なを其うへ給人・百性念ちかひあらば、その田をみなかり候て、いね三ツにわけ、くじ取いたし二ぶんきう人、一ぶんハ百姓さくとくに取可申候、壱石ニ弐升のくち米*4あげニはかり、ひとへだハら*5にし、そのぬし/\計申候か、又其身はかり申事ならぬものハ中*6のはかりてをやとひ、はからせ可申候、ますハたゞいま遣す判の升*7にて計可申候、さいぜんけん地衆の升ニふときほそき候間*8、中を取ためハせつかわす也、五里ハ百姓もちいたし可申候、五里の外二三里ハ百姓隙々*9すきに*10はんまい*11を給人つかハしもたせ可申候、此外むつかしき儀有ましき事、
(書き下し文)
ひとつ、年貢の納めようのこと、田刈らざる前に田頭にて見はからい、免の儀あいさだむべし、もし給人・百姓念違いの田あらば、升づきいたし免定め申すべく候、なおそのうえ給人・百姓念違いあらば、その田を皆刈り候て、稲三ツに分け、くじ取いたし二分給人、一分は百姓作徳に取り申すべく候、壱石に弐升の口米上げに計り、一重俵にし、その主々計り申し候か、またその身計り申すことならぬ者は中の計り手を雇い、計らせ申すべく候、升は只今遣わす判の升にて計り申すべく候、最前検地衆の升に太き細き候あいだ、中を取りためはせつかわすなり、五里は百姓持ちいたし申すべく候、五里のほか二・三里は百姓隙々すきに飯米を給人遣わし持たせ申すべく候、このほか難しき儀あるまじきこと、
(大意)
ひとつ、年貢納入の方法については以下の通りとする。田は刈り取る前に田のそばでよく見定めた上、年貢率を決定すること。万一給人と百姓で見方が異なる田があったなら、升ではかり年貢率を決めなさい。そのうえでまだ給人と百姓が納得しなければ、その田の稲をすべて刈り、稲を三つに分け、くじを引いた上で二分を給人の取り分、一分を百姓の作徳にしなさい。計る際、一石につき二升の口米を含めて計り、ひとえ俵にし、その作り主が計るか、計ることのできない者は仲立ちをする計り手を雇い、計らせなさい。升はこれから渡す花押の据えてある升で計りなさい。先ほど検地をおこなった者が使った升には大きい小さいといった幅があったので、中間をとったものを遣わせたところである。五里以内に住む百姓は自弁で取りに来なさい。五里からさらに二・三里に住む百姓は手隙のあるときに、飯米を給人が負担することとする。これ以外に面倒なことは禁止する。
「念違い」という文言にあらわれているように給人と百姓の間に、年貢率をめぐるトラブルが発生していたようだ。また、すべての稲を刈り取った上で念を入れたことに「くじ取り」を命じているのも、「公平性」をめぐって給人と百姓の間に緊張が生じていたためなのだろう。
ところで本文書からいわゆる「二公一民」と解釈するのは無理がある。そもそも年貢率が定められているのなら、このような掟書を下す必要はなく、また「念違い」も起きない。
「計り手」を雇うという点も興味深い。
さらに検地奉行らが使用した升の大小も問題とされている。一般に太閤検地によって度量衡の統一がなされたと理解されているが、実態はそうでもなかったようだ。なにより検地尺で名高い石田三成自身が認めているという点は象徴的だ。