日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正9年12月4日丹波国桑田郡宇津領明智光秀年貢米請取状を読む

 

 

納宇津領内*1年貢米之事*2

   参石者        黒田*3

  合                両所分并

   壱斗五升者夫米也   瀬龍*4

右、攸*5請取如件、       (花押)*6(黒印)

  天正九年十二月四日

 

(書き下し文)

    納宇津領内年貢米納めのこと、

合わせて参石は黒田・瀬龍両所分ならびに、一斗五升は夫米なり、

右、請け取るところくだんのごとし、

 

(大意)

宇津領内の年貢米収納のこと、合計3石は黒田・芹生両村分の年貢米として、1斗5升は夫米として請け取りました。以上。

 

 

 

 

史料集では「書状」とするが、当ブログでは年貢米請取状とした。近世に入ると、年貢関係文書は年貢割付状や年貢皆済目録など定型化していくが、中近世移行期は形式が定まっているとはいえない。「如件」との書き止め文言からは書状といえず、さしあたり「請取状」とした。『新修亀岡市史資料編』第二巻も「年貢米請取状」としている*7

 

本年貢に対する夫米の割合は、5パーセントになる。

 

これらの村々は山国庄に属していた。下に位置関係を示しておく。

 

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                 「日本歴史地名大系」京都府より作成

 

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                           「国史大辞典」より作成

 

 

*1:丹波国桑田郡、宇津頼重が支配していた荘園

*2:藤田ほか編『明智光秀』111号文書

*3:桑田郡黒田六ヶ村、下黒田・黒田宮・上黒田・片波・灰屋・芹生

*4:芹生、黒田六ヶ村のひとつ

*5:「ユウ」または「トコロ」、意味は在所、

*6:光秀

*7:同書43頁