日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正9年9月27日河瀬兵部丞・今井郷惣中宛明智光秀書状写を読む

 

 (追筆)*1

 「端書無之、」*2

当在所*3之事、去年任(闕字)仰出旨*4、土居構*5崩之、国次*6*7土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及*8別而断*9之儀候之条、自今以後、不可有疎意*10候、猶(数字破損)藤田伝五□□□(可申候カ)恐々謹言、

 天正□□(九年)    惟任

  九月廿七日        光秀(花押影)

    河瀬兵部丞*11殿

    今井郷*12惣中

 

(書き下し文)

 

当在所のこと、去年仰せ出ださる旨にまかせ、土居構これをくずし、国なみ土民に准ずるよし、もっとも神妙に候、その段いよいよ相違なくにおいては、重ねて違乱のやからこれあるべからず候、陣取など堅く停止せしむべし、宗及別して断りの儀候の条、自今以後、疎意あるべからず候、なお藤田伝五申すべく候、恐々謹言、

  端書これなし、

 

 

(大意)

今井郷のこと、去年信長様が仰せになったとおり、郷の土塁などを壊し、ふつうの郷村なみとするとのこと、まことに結構なことです。武装を解いたことについて異議を申し立てる連中が出ないようにしてください。軍勢が陣取りすることはやめさせます。今井宗久が詫び言を申していますので、今後も守ってください。詳しくは藤田伝五が申し上げます。謹んで申し上げました。

 追伸はありません。

 

 

この史料集では天正9年と読むが、永島福太郎、奥野高廣両氏は天正3年とする*13後者の場合「去年任仰出旨」は天正3年11月9日今井郷惣中宛織田信長朱印状をさすが*14前者ならば大坂本願寺との和睦のことを指す。ただ、奥野氏は天正2年の、光秀による今井町への武装解除の命令とするが、闕字に留意されていないうえ、尊敬の「被」が問題となる*15

 

今井郷は他の郷村と異なり、 土塁をめぐらして防御性を高めたものであったようだ。また今井郷と光秀との間に「宗及」という仲介人がいたこともわかる。

 

 

 

天正3年11月9日今井郷惣中宛織田信長朱印状


当郷事、令赦免候訖、自今以後万事可為大坂同前、次陣取并乱妨・狼藉等、堅令停止之状如件、
  天正
    十一月九日    (信長朱印)
       今井郷惣中
    (書き下し文)
   当郷のこと、赦免せしめそうらいおわんぬ、自今以後万事

   大坂同前たるべし、次に陣取りならびに乱妨・狼藉など、

   堅く停止せしむるの状、くだんのごとし、 

 

*1:藤田ほか編『明智光秀』110号文書、110頁

*2:尚々書がないことを断るために書いたもの

*3:今井郷

*4:闕字があることから信長の仰せ。詳細は本文で

*5:土塁などで武装した構築物

*6:大和国の平均的な習慣

*7:なぞらえる、近づける

*8:今井宗久

*9:詫び言を言うこと

*10:疎んじること、ここではこの文書の趣旨を反故にすること

*11:今井兵部

*12:大和国高市郡本願寺門徒寺内町

*13:永島福太郎「今井氏及び今井町の発達」(1940年)https://doi.org/10.20624/sehs.10.1_75、奥野上掲書下巻、152頁

*14:奥野上掲書600号文書

*15:上掲書、152頁