前回の記事で藤井讓治氏の、豊臣期固有の身分としての「奉公人」とする見解を紹介した。
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その論拠が「人掃令」として知られる法令である。ただし、年代比定は天正19年ではなく、同20年とする立場をとられている。
急度申候、
一、従当(闕字)関白樣*1六十六ヶ国へ人掃之儀被仰出候之事、
付、中国御拝領分ニ岡本次郎左衛門、小寺清六被成御下、廣嶋*2御逗留之事、
一、家数人数男女老若共ニ一村切ニ可被書付事、
付、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓者百姓、一所ニ可書出事、但書立案文別紙遣之候、
一、他国之者、他郷之者、不可有許容事、
付、請懸り手*3有之ハ、其者不可有聊爾之由、血判之神文を以可被預ケ置事、
付、他国衆数年何たる子細にて居住と可書載候、去年七月以来上衆人を可憑と申候共、不可有許容事、
一、廣嶋私宅留守代、并在々村々ニ被置候代官衆之書付、至佐与*4ニ可被指出事、
一、御朱印之御ケ条*5、并地下究之起請文進之候、令引合無相違様ニ可被仰付事、
右之究於御延引者、彼御両人直ニ其地罷越、可致其究之由、一日も早々家数人数帳ニ御作候て可有御出候、於御緩者、其地下/\へ可為御入部之由候之間、為御届こま/\申達候、已上、
天正十九年*6
三月六日 安国寺
佐世与三左衛門(花押)
(押紙)*7
「広家*8奉行」
粟屋彦右衛門尉殿
桂 左馬助殿
『大日本古文書 吉川家文書之二』975号文書
(書き下し文)
一、当関白樣より六十六ヶ国へ人掃の儀仰せ出され候のこと、
つけたり、中国御拝領分に岡本次郎左衛門、小寺清六御下しなられ、廣嶋御逗留のこと、
一、家数・人数、男女老若共に一村切に書き付けらるべきこと、
つけたり、奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓、一所に書き出すべきこと、ただし書き立て案文、別紙これをつかわし候、
一、他国の者、他郷の者、許容あるべからざること、
つけたり、請懸り手これあらば、その者いささかもしかるべからざるのよし、血判の神文をもって預け置かるべきこと、
つけたり、他国衆、数年なんたる子細にて居住と書き載せべく候、去年七月*9以来上*10衆人*11をたのむべきと申し候とも、許容あるべからざること、
一、広島私宅留守代、ならびに在々村々に置かれ候代官衆の書付、佐与にいたり指し出さるべきこと、
一、御朱印の御箇条、ならびに地下究めの起請文これをたてまつり候、引き合わせしめ相違なきように仰せ付けらるべきこと、
右の究めご延引においては、かのご両人じきにその地罷り越し、その究めいたすべきのよし、一日も早々家数人数帳にお作り候て御出しあるべく候、お緩みにおいては、その地下地下へご入部たるべきのよし候のあいだ、お届けさせこまごま申し達し候、已上、急度申し候、
(大意)
一、秀次樣より六十六ヶ国へ人掃が命じられました。
つけたり、中国領の分へ岡本次郎左衛門、小寺清六両名を遣わされ、広島に滞在することになりました。
一、家数・人数、男女老若ともに一村ごとに書き出されるようにしてください。
つけたり、奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓、まとめて一箇所に書き出すべきこと。ただし書き立て案文は別紙にして渡すこととする。
一、他国の者、他郷の者、その村々に住まわせることは認めない。
つけたり、保証人がいるならば、その者が胡乱なるものなら、血判の起請文にて村々に置くこと、
つけたり、他国衆は、何ヶ年、これこれこういう事情で居住していると帳面に書き載せること。天正19年7月以後は衆人監視とするといっても、許容しない。
一、広島私宅の留守居、ならびに在々村々に任命した代官衆の名前を、佐世元嘉に差し出させること。
一、御朱印の御箇条、ならびに村々で書き記した起請文を差し出させ、突き合わせた上で相違がないように命じられるべきこと。
右の決まりにつき遅延があったなら、岡本・小寺の両人が直接その村へ出張り、その決まり通りするようにとのこと、一日も早々家数人数帳を作成し差し出すように。怠慢が見られる場合は、その地下地下へ立ち入るべきということなので、詳細申しました。以上。しっかりと伝えました。
この文書は毛利家家臣の安国寺恵瓊、佐世元嘉が吉川広家の奉行粟屋・桂両名に宛てたものである。
下線部に見られるように「奉公人は奉公人」「町人は町人」「百姓は百姓」としてそれぞれ帳面に書き出すように命じている。この記述から「奉公人」という身分が存在したと藤井氏は主張される。
兵農分離の「兵」に奉公人を加えるべきか否かは議論の分かれるところであるが、「侍」が武家奉公人であるという理解は共有されている。