日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正9年6月21日出野左衛門助・片山兵内宛明智光秀書状を読む

 

  

 

  尚以、和久左息井上介*1肥前入道*2取逃候、其山中*3

  より外、別ニ可行方無之候、随分念を入、可被

  出候、以上、

和久左衛門大夫*4城破却之儀、去年申付候処、号寺家を残置、任雅意*5之条、昨日加成敗*6候、近年逆意之催、不可有其隠候*7、就其、彼一類并被官人、其在所*8へ逃入之由候条、急度搦捕之可出候、下々*9於隠置者、雖至後々年、聞付次第、当在所*10加成敗候*11、別而念を入尋出、可有成敗候、猶上林紀伊守可*12申候、恐々謹言、

  (天正九年)     日向守

    六月廿一日      光秀(花押)

     出野左衛門助殿

     片山兵内殿*13

         進之候*14

          

                藤田ほか編『明智光秀』109号文書、109頁

 

 

(書き下し文)

   

和久左衛門大夫、城破却の儀、去年申し付け候ところ、寺家を残し置くと号し、雅意に任せるの条、昨日成敗加え候、近年逆意の催し、その隠れあるべからず候、それについて、彼の一類ならびに被官人、その在所へ逃げ入るのよし候条、急度これを搦め捕り出すべく候、下々隠し置くにおいては、後々年にいたるといえども、聞き付け次第、当在所成敗を加え候、べっして念を入れ尋ね出し、成敗あるべく候、なお上林紀伊守申すべく候、恐々謹言、

 

  なおもって、和久左息井上介・肥前入道取り逃げ候、その山中よりほか、

  別に行くべき方これなく候、随分念を入れ、尋ね出されるべく候、以上、

 

 

(大意)

 

 

和久左衛門大夫、居城を破却すべきことを昨年命じたところ、寺などは壊さず残すと主張し、わがまま放題の振る舞いをしているので、昨日裁きを行い、逆心を抱いていることが明白になりました。それで和久の親類縁者および家臣どもが、そなたの村々へ逃亡したそうですので、かならず彼らを捕縛してください。下々の者が彼らをかくまうなどすれば、数年後といえども、こちらの耳に入り次第、在所全体を成敗しますので、入念に探し出し、裁きの場に出すように。詳しくは上林紀伊守が申します。謹んで申し上げました。

 

 

追って申し述べます。和久左衛門大夫の子息井上介や肥前入道も逃亡しました。そちらの村々以外に、行くところもないので入念に探し出すように。以上。

 

  

 和久城周辺図

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                       Google Mapsより作成

 

そういえば脇付をもっとも使うのは医師ではないかと思う。完全に個人的な観測範囲内だが、紹介状に「○○先生 御侍史」と書かれていないものは見たことがない。これは病院のヒエラルヒーと無関係でもあるようだ。個人のクリニックから大病院への場合はもちろん、その逆もまた然りである。

 

一方、就職活動やビジネスなどの場面で、文末に「恐惶謹言」などとしたためようが、「人事部 人々御中」と書こうが、「××課長 御机下」などと封筒に記そうが、おそらく奏功しないだろう。

 

大変興味深い。

 

 

*1:和久左衛門大夫の子息

*2:和久左衛門大夫の縁者か

*3:「其在所」のこと

*4:和久城を根拠とする国人領主

*5:我意

*6:裁きをおこなう

*7:明白である

*8:出野や片山の支配する在地

*9:出野らの被官人や百姓ら

*10:「其在所」のこと

*11:在所ごと成敗する、つまり連帯責任とする

*12:上林庄を根拠とする国人

*13:光秀家臣なお天正9年4月18日瀬野右近・東沢加賀守宛明智光秀判物写を読む - 日本史史料を読むブログ参照

*14:「これをたてまつりそうろう」、「脇付」のひとつ、現在でも「侍史」「机下」などを宛名に添えることで敬意を表す習慣がある。