日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正3年11月21日小松庄惣中宛明智光秀判物写を読む

 

前回に続き、小松庄宛の「判物写」(66号文書、75頁)を読む。前回と同様「書状写」とあるが「如件」の書き止め文言から「判物」とした。

 

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当郡与高嶋郡境目事、如先規、限北小阪四十八体、従此方申付候条、庄内得其意田地等可令進退候、若従打下違乱之儀於在之者、急度可有注進候、仍山林等可為同前之状如件、

 (天正三年カ)

   十一月二十一日      光秀(在判)

        小松

          惣中

 

(書き下し文)

当郡と高嶋郡境目のこと、先規のごとく、北は小阪四十八体を限り、此方より申し付け候条、庄内その意を得、田地など進退せしむべく候、もし打下より違乱の儀これあるにおいては、急度注進あるべく候、よって山林など同前たるべくの状くだんのごとし、

 

*当郡:滋賀郡

 

*限北小阪四十八体:六角氏の代官が応永23年9月20日、現地に出向き裁定した。

 

*打下:高島郡

 

(大意)

当滋賀郡と高嶋郡の境のことは、以前の決まり通り、北限を小阪四十八体とする旨、伝えました。小松庄として了解し、田地などの管理を行いなさい。もし打下村より異議申し立てなどがあったなら、必ず報告しなさい。よって山林などは以前と同様とする。以上である。

 

永年争われてきた郡境相論に対して、光秀が裁定を下した文書である。

 

戦国期の領主にもっとも求められていたのが、紛争の調停であり、なかでも境界相論はその代表例であった。