前回に続き、小松庄宛の「判物写」(66号文書、75頁)を読む。前回と同様「書状写」とあるが「如件」の書き止め文言から「判物」とした。
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当郡与高嶋郡境目事、如先規、限北小阪四十八体、従此方申付候条、庄内得其意田地等可令進退候、若従打下違乱之儀於在之者、急度可有注進候、仍山林等可為同前之状如件、
(天正三年カ)
十一月二十一日 光秀(在判)
小松
惣中
(書き下し文)
当郡と高嶋郡境目のこと、先規のごとく、北は小阪四十八体を限り、此方より申し付け候条、庄内その意を得、田地など進退せしむべく候、もし打下より違乱の儀これあるにおいては、急度注進あるべく候、よって山林など同前たるべくの状くだんのごとし、
*当郡:滋賀郡
*限北小阪四十八体:六角氏の代官が応永23年9月20日、現地に出向き裁定した。
*打下:高島郡
(大意)
当滋賀郡と高嶋郡の境のことは、以前の決まり通り、北限を小阪四十八体とする旨、伝えました。小松庄として了解し、田地などの管理を行いなさい。もし打下村より異議申し立てなどがあったなら、必ず報告しなさい。よって山林などは以前と同様とする。以上である。
永年争われてきた郡境相論に対して、光秀が裁定を下した文書である。
戦国期の領主にもっとも求められていたのが、紛争の調停であり、なかでも境界相論はその代表例であった。