日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正3年10月2日近江国滋賀郡小松庄惣中宛明智光秀判物写を読む

 

藤田達生ほか編『明智光秀』74頁、64号文書、ただし前掲書では「書状写」とするが、書き止め文言から「判物写」と判断した。

 

当庄之内、鵜川年貢米高頭之儀ニ付、打下之百姓存分有之由候、然者為庄内彼田地、早々苅上如約束可納所、聊不可有油断、并伊藤民部丞跡職之儀当納之事、田中内蔵介方江可相納候、少も於隠置者、可為曲事之状、如件、

  (天正三年カ)

    十月二日         光秀判

        小松庄

          惣中

(書き下し文)

当庄のうち、鵜川年貢米高頭の儀につき、打下の百姓存分これあるよし候、しからば庄内としてかの田地、早々苅り上げ約束のごとく納むべきところ、いささかも油断あるべからず、ならびに伊藤民部丞跡職の儀当納のこと、田中内蔵介方へあい納むべく候、少しも隠し置くにおいては、曲事たるべくの状、くだんのごとし、

 

*小松庄:園城寺円満院領だったがのち聖護院領になった。室町期になると後述の打下とのあいだでしばしば境相論がおきた。

 

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        「日本歴史地名大系・滋賀県」より作成

 

*鵜川:近江国滋賀郡鵜川村

 

*高頭:石高などの数量、数値。

 

*打下:近江国高島郡打下村

 

*存分:考え、意趣。

 

*約束:きまり

 

*伊藤民部丞:小松庄住人か

 

*跡職:跡目と引き継ぐ財産

 

*当納:今年納めるべき年貢・諸役

 

*田中内蔵介:光秀の家臣、代官か

 

(大意)

 

小松庄のうち、鵜川村の年貢米合計のことについて、打下村の百姓が言い分があると聞いた。そうであるなら小松庄として鵜川村の田地に実った稲を、早々に苅り上げ、決められたとおり年貢諸役を納めるよう、少しも油断のないようにしなさい。また伊藤民部丞の跡職分の年貢所当分は、田中内蔵介に納めなさい。ほんの少量でもごまかした場合には、曲事である旨、以上の通りである。

 

 

 

「為庄内」(庄内として)とあるように、光秀は「庄請」制による支配を行っていたようだ。またこの文書に登場する村々は、長期にわたって堺目を争っていたらしい。「打下之百姓存分有之由」とあるように、年貢納入高をめぐる紛争が起きていたことがうかがわれる。

 

また、この文書に限っていえば、光秀は境相論の解決には踏み込まず、年貢諸役の納入を最優先していることがわかる。