群馬県立博物館『織田信長と上野国』展示図録2018年、53号文書、55頁、119頁(革嶋文書)
(折紙)
今度月読分
松室之義革嶋
被仰付候処、松室
并百性退出之由候、
曲事候、然者当郷
彼者共於許容仕候ハ
可有御成敗之由被仰
出候、其上預物在之
ハ革嶋かたへ持可遣候、
恐々謹言、
瀧川
七月廿八日 一益(花押)
松室在所
名主百性中
*月読:松尾月読神社(現京都市西京区)。月読神社の社領をめぐってしばしば相論があったようで、天文4、5年頃には禰宜職と社領をめぐって松室宮千代と千々代が争っている。永禄5年には「一職進止之地」として幕府から当知行を安堵され、同7年には上野村(西京区)の百姓から買得した土地も徳政令を免除されている(「日本歴史地名大系・京都府」)。
*革島文書についてはこちらを参照
また革島館についてはこちら
http://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku/2009-6honbun.pdf
*松室:西京区松室
*退出:貴人の前や役所などから引きさがって帰ること、その場からさがること。ここでは逃散すること。
*預物:質物
(書き下し文)
このたび月読分、松室の義革嶋仰せ付けられ候ところ、松室ならびに百性退出のよし候、曲事に候、しからば当郷かのものども許容つかまつり候においては御成敗あるべくのよし仰せ出でられ候、そのうえ預物これあらば革嶋方へ持ち遣わすべく候、恐々謹言、
(大意)
このたび月読神社社領の松室郷支配を革嶋に仰せ付けらた。しかし月読神社の祢宜や百姓が逃散したとのこと、まことにもってけしからんことである。松室郷としてかれらを見逃した場合は成敗が加えられるとの信長様のご命令である。さらに質に入れたものがあれば革嶋に渡しなさい。
年代比定はされていないが、展示、図録では花押の形から元亀3年に配列している。ただし、それ以上は述べていない。
文書の宛所が「名主百姓」=有力農民であることから、逃散したのは困窮した下層の百姓であろう。秀吉政権以後は、帰村を促すことに腐心するが、この時期の信長は厳罰主義だったようだ。文末の文言からも、徳政による救済はせず、小農自立や維持などの方針は見られない。
市(いち)とは対照的に郷村はほとんど視野に入っていないようだ。また郷村の自治的行動に対しても釘を刺している。
他の史料とあわせて検討すれば、興味深い議論ができるかも知れない。