兵庫県立歴史博物館『ひょうごと秀吉』展示図録、41、42号、28頁、2017年
(表紙:竪冊)
「 天正十四年十一月三日
あわちの国わきさか中務知行目録
」
一、九百参拾九石九斗 ないぜん
一、千百四拾弐石弐斗五升 ものへ庄
一、五百拾壱石六斗七升 ちくさ
一、弐拾石五斗五升 しほや
一、拾石二斗四升 たけの江
一、千三百九拾石壱斗 しほ田
一、参百五拾一石二斗 もくつ
一、百六拾九石壱斗 ぐんげ
(表紙:竪冊)
「 天正十四年十一月三日
わきさか中務代くわん
あわちの国御くら入もくろく
」
一、弐石七斗 ゆらいかり公事
但代弐貫三百匁者也
一、参拾四石七斗 物部
一、六拾石二斗 草下分
一、弐拾九石 挽川之内
津名郡之内
一、八百弐拾七石 いくわ
合壱万千五百参拾石
右取納可運上者也、
天正十四年十一月三日(秀吉朱印)
脇坂中務少輔とのへ
ここで翻刻したのは写真部分で、117頁の「解説」から作成したのが下記の一覧表である。
また「れきはくデータベース」の旧高旧領との対照表は下記の通り。
育波村の石高が維新後より天正14年の方が高いところが気になるが、近世では「育波浦」とされ、村高も大きく変動するがそのあたりの事情はわからない。
いずれにしろ、天正14年には育波村(または郷)が脇坂の知行地と蔵入地の相給となっている。
「日本歴史地名大系・兵庫県」の明治復刻地図から確認できる地名を落としたのが下図になる。