最近博物館に行ってきた。古文書が展示されているので、ガラスケース越しだがひさびさに現物を目にした。
もちろん燻蒸されているので臭いはないし、和紙の手触りも感じ取ることはできない。背中がかゆくなることもない。しかし、墨の濃淡や運びは写真の比ではない。ここのところずっと新聞やテレビなどのニュースの映像越しに文書を読んできたが、現物だとストレスなく眺めることができる。
文書は継紙の場合、裏判と呼ばれるものが据えられ、順序を入れ替えることができなくなっている。それも手に取るようにわかり、印影も明瞭だ。
1980年代、戦中から戦後にかけて製造された酸性紙が大問題となった。触れると破損するため、書籍は所蔵されていても利用できないのである。マイクロフィルムで代用するしかなかった。同様に和紙も手で触れればそれだけ劣化する。利用と保管はトレードオフの関係にある。
しかし和紙は1000年以上耐えてきたという実績がある。墨もそうだ。しかも修復可能である。最先端技術と言っても耐用年数はシミュレーション上での仮説に過ぎず、実績はない。たとえば万年筆などと僭称するが実際のところは「三年筆」と名前を改めるべきである。
また碑文や墓石などの金石文はそのものでは読みにくいため拓本で読むのが良いとされている。拓本をとれるのも和紙である。
和紙に耐性があるからこそ、日本銀行券は楮や三椏などを原材料としているのではないか。
墨と和紙にもう少し親しんでもよいと思う。