日本中近世史上有名な文書群である菅浦文書が国宝に指定された。そのうちから、貞和2年9月の「ところおきふミの事」(所置文之事)を少々紹介したい。
https://mainichi.jp/articles/20180310/ddl/k25/040/496000c
長浜市長浜歴史博物館編『菅浦文書が語る民衆の歴史』31頁
端裏書・・・文書は折りたたんで保管し、開いてみるまで何が書かれているかわからないので、検索のインデックスとして文書の要旨を書いたものが多く、ここでも同様。
(端裏書)
「日指・諸河田畠うりかうまじきおきふミ」
ところおきふミの事
一、日指・諸河田畠をいて一年
二年ハうりかうといふとも永代
おうることあるへからす、こ
のむねをそむかんともからに
おいてハそうのしゆしをと
とめらるへく候、よんてところ
のおきふミの状如件、
貞和二年九月日
正阿ミた仏(略押) 正信房(略押)西阿ミた仏
(以下署名、略押略)
(書き下し文)
「日指・諸河の田畠売り買うまじき置文」
所置文のこと
ひとつ、日指・諸河田畠において一年・二年は売り買うというとも、永代を売ることあるべからず、この旨を背かん輩においては、惣の出仕を留めらるべく候、よって所の置文の状くだんのごとし、
貞和二年九月日
正阿ミた仏(略押) 正信房(略押)西阿ミた仏
(以下署名、略押略)
日指と諸河は大浦との係争地になっている地名で、一年、二年の年季売りは許可するが、永代の売買は禁止し、これに背いた者は自治組織である「惣」への参加資格を剥奪すると決めた文書である。
略押はただの丸印だけの者もおり、百姓クラスの者が花押を持つまでにはいたっていない。これが14世紀半ばの村落社会である。しかしのちには立派な花押を据える者も現れるようになる。