日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

慶長11年9月23日甲賀郡和田村・五反田村惣百姓中宛米津正勝・板倉勝重・大久保長安連署山論裁許状を読む

次のような記事が掲載された。

www.sankei.com

https://mainichi.jp/articles/20180302/ddl/k24/040/201000c

 

上記記事の写真右下部分はおそらく、慶長11年9月23日甲賀郡和田村・五反田村惣百姓中宛米津正勝・板倉勝重大久保長安連署山論裁許状と思われる。おそらく一連の文書が、まとめて表装されているのだろう。

 

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 『三重県史資料編近世1』574頁所収の141号文書と思われるので、ここに書き出してみる。

 

  以上

伊賀国上柘植村与甲賀郡之内和田・五反田両村与山之出入之事各聞届候、先年両国之侍衆拾人宛出合、以相談判状仕候上者、如前々和田・五反田村ゟ山手米上柘植村へ納候而山江入可申候、仍如件、

         大石見守(印)

  慶長拾壱年  板伊賀守(印)

   九月廿三日 米津清右衛門尉(印)

   甲賀郡

      和田村

           惣百姓中

      五反田村

 

(書き下し文)

 

伊賀国上柘植村と甲賀郡のうち和田・五反田両村と山の出入のこと、おのおの聞き届け候、先年両国の侍衆十人ずつ出合い、相談をもって判状つかまつり候うえは、前々のごとく和田・五反田村より山手米、上柘植村へ納め候て山へ入り申すべく候、よってくだんのごとし、以上

 

(大意)

伊賀国上柘植村と近江国甲賀郡和田・五反田両村が山について相論していることについて、それぞれの主張を聞き、天正元年伊賀・甲賀の「奉行」と呼ばれる有力土豪が十人ずつ出し、相談をもって連署状を作成したのだから、従来のとおり和田・五反田村から山手米を、上柘植村へ納めて入山するようにしなさい。裁許は以上の通りである。

 

 

三村の位置関係は以下の通り。(「日本歴史地名大系」三重県「明治復刻地図」より作成)

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*大石見守:大久保石見守長安

 

*板伊賀守:板倉伊賀守勝重

 

*米津清右衛門尉:米津正勝

 

*先年両国之侍衆拾人宛出合、以相談判状仕:天正元年12月7日「甲賀郡奉行十人」と「伊賀奉行十人」のそれぞれの「惣」が署名と花押を据えた連署起請文のこと(上掲書120頁、42号文書)。「御弓矢ノ手前、此分にて可有御落居候」とあり、武力衝突直前までの緊張状態に陥ったようだ。

 

 天正元年段階では「奉行」と、この裁許では「両国之侍衆」とよばれる在地の有力者によって、話し合いがなされて秩序が保たれていたが、なかには血気盛んな百姓連中が、決まりを守らず入山していたようだ。慶長年間になると、このように上級権力の裁定を仰ぐようになる。

 

この衝突は伊賀と甲賀という自治組織同士の争いのみならず、国境相論となりかねない火種を抱えている。

 

また、宛所が「惣百姓」とある点も興味深い。