『太閤記』巻第八(岩波文庫版(上)268頁以下または国立国会図書館デジタルコレクション 43コマ目以下 国立国会図書館デジタルコレクション - 太閤記 : 22巻. [4])に「古今各(=をのをの)知行割之事」という節がある。
まず信長の父、織田備後守信秀の知行割法について記している。知行所を定めた上で、家屋敷をよく調べ、家具なども目録で渡したながら、半年ほど生活費をまかない、友人同様に遇したという。そのさまは父が我が子を愛するが如くであった、とある。今なら蜂須賀蓬庵家政が信秀に近いと評する。
信長については次の通り。
一、信長公の知行割は、古今に異に、和漢に稀なる事ざまにて、都合にも及ばせ給ず。南は河をさかひ、北は大道、東は某(それ)、西は某(それ)之郷をかぎり可知行之旨被仰出のみにて、一行之印(いちぎやうのおして)を出し給ふ事も、多はなかりき。天下且治り国風も且しづまりてよりは、有べき法にて有し也。
*都合:合わせること、合計すること、算段すること、
*一行:「いっこう」とも読む、証拠となる文書のこと
*印:花押のこと。花押の据えてある文書の方より、朱印や黒印など印判を捺した文書の方が礼としては下。これを薄礼化(はくれいか)と呼ぶ。また、文書を発給する方にとっては尊大化にあたる。
*且つは:一方では
(大意)
信長公の知行割は、古今とは異なり、和漢を問わず非常に珍しい方法で、帳尻の合わないものであった。南は河を境界とし、北は大道を、東はあるところを、西はある郷を境とし知行しなさいとの仰せのみにて、知行宛行状をお出しになることも、多くはなかった。天下が治まる一方で国風もしづまてからは、しかるべき規範であったのだ
この記述はあくまでも小瀬甫庵の評論であり、この記述のみから信長の知行割がそうだったと判断することはできない。「太閤記」という物語の中で秀吉を際出せるため、話を盛るケースはあとを絶たないからだ。太閤記には秀吉の朱印状の写などが盛り込まれているが、いずれも甫庵による創作の可能性が高く、実際伝わっていないものも多い。「豊臣秀吉文書集」にも収載されているがいずれも「要検討」の注意書きが付されている。
ただ、信長が都市流通政策にくらべ、在地を軽んじていたという印象は本ブログでたびたび述べているように、共通する。
信長が頚を斬った人数を誇るのに対し、秀吉は金銀銭や米との毎年のレートなどの数値を細かく記載させている。甫庵はまるで秀吉が信長を反面教師としたような口ぶりで描いているが、その点は本ブログも同感だ。