日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

アシガール第3回「若君といざ出陣」 陣触=意外な地雷原

前回天野信近による陣触を読んでみた。信近の「条々」では百姓7名が指名されている。また、読み聞かせている者の立場は天野の被官のように見えたが、はっきりとはわからない。郷村の代表者である「小代官」かも知れない。

 

問題は、領主が百姓ひとりひとりを認識し、直接指名できるのかという点にある。

 

後北条氏の場合は以前書いた。

<再掲>

戦国期郷村から徴発される百姓は武装自弁である。天正15年7月晦日「三増郷小代官百姓中宛後北条氏朱印状」にはつぎのようにある。

一、腰さし類者ひら/\、武者めくやうニ可致支度事、

一、よき者を撰残し夫同前之者申付候ハゝ、当郷小代官何時も呼出次第可切頚事、

 

(書き下し文)

ひとつ、腰差しのたぐいは、ひらひら武者めくように支度致すべきこと、

ひとつ、よき者を撰び残し、夫同然の者申し付けそうらわば、当郷小代官、何時なるとも呼び出し次第、頚を切るべきこと、

 

(大意)

ひとつ、腰に差した武具のたぐいは、ひらひらと武者のような出で立ちでまかり出ること。

ひとつ、丈夫な者を選んで郷村に残し、人夫または腕の劣った程度の者をよこした場合は、当郷の小代官をいつなるとも呼び出し、その場で首を切ること。

 

 

村に壮健な者を残し、体力温存するような郷村は小代官を監督不行き届きとして斬首するという、きびしい命令である。

 

 

徴発する兵の選定は郷村に委ね、その結果戦えそうもないものばかり兵として差し出した郷村の小代官は責任を取らされ、首を刎ねられる。そういうシステムだった。

 

実はこれ、戦国大名の検地は秀吉のそれとは異なり、自己申告制=「指出」だったという論点に関わる重要な問題である。

 

中近世において果たした郷村の役割を重視する立場からはこれを「村請制」と呼ぶ。呉座勇一氏がたびたび参照する勝俣鎮夫氏ならば「町村制」と呼ぶであろう。いずれにしろ、郷村内の百姓に領主が直接介入してくるのはかなり珍しい事例だ。

 

意外にも、織田信長は都市・流通政策には熱心だが、在地にはあまり関心がなかったようだ。