磯田道史氏が以下の記事で「覚えやすい仮名文字の存在は大きかった」と指摘されている。これは誤解されやすい発言ではないか。
古文書調査に参加した者なら誰でも感じることだが、明治に入ると途端に字が読みにくくなる。この文字の読みにくさに国家と民衆の関係を見出したのが網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫)である。
また同書は公的な文書は漢字で、私的なものは仮名で書かれているところに日本における「公私」の区別を見る。秀吉は漢字の文書と仮名文書、双方を使い分けていたふしがある。
そもそも戦後しばらくまで変体仮名が健在だったことは女性の名前を見れば明らかである。「生そば」「うなぎ」の暖簾をくぐれば「御手茂登」と印刷された割り箸が卓上で待っている。これも「御てもと」という仮名であり、「夜露死苦」式のものとはまったく異なる「由緒正しき」変体仮名である。
「葉留能」=「はるの」さん
「登美」=「とみ」さん
「婦じゑ」=「ふじゑ」さん
この写真で漢字は「御」のみで「たおる」は仮名だ。タオルすら変体仮名で表せるこの融通無碍さは、画一的な活字文化とはまるで異なる。
仮名が漢字より読みやすいという先入観は、文字が歴史的に碑文や篆刻、毛筆などの手書きから始まった事情を無視したものだ。マンガと文章に読みやすさの序列がある、というのもひとつの立場に立てばという前提で成り立つ。顔がどれも同じに見えるブログ主にとってはマンガはストーリーが頭になかなか入ってこない。
またさまざまなバリエーションを持つ仮名が覚えやすい、というのは画一化された仮名だけしか知らない現在の我々にとって、ではなかろうか。
ドラマ「アシガール」最終回、主人公は仮名すら満足に書けない。仮名を書けないまま高校に進学できる21世紀はある意味恐ろしい。