日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正10年6月17日 多聞院英俊、明智光秀を呪い殺す!?

 

多聞院日記天正10年6月17日の条に光秀の名前がふたたびあらわれる。あの29万回以上呪った英俊である、どう書き残したか、興味がそそられる。

 

なお該当箇所は123コマ目である。

国立国会図書館デジタルコレクション - 多聞院日記. 第3巻(巻24-巻31)

 

 

十七日


一、 惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階ニテ一揆ニタヽキ殺レ了、首モムクロモ京ヘ引了云々、淺猿々々、細川ノ兵部大夫カ中間ニテアリシヲ引立之、中国ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此、


(中略)


一、 齋藤蔵助生捕テ安土ヱ引云々、天命々々、

 

 

(書き下し文)

ひとつ、 惟任日向守は十二日勝竜寺より逃げて、山階にて一揆にたたき殺されおわんぬ、首も骸も京ヘ引きおわんぬとうんぬん、淺猿々々、細川の兵部大夫が中間にてありしをこれ引き立て、中国の名誉に信長厚恩にてこれを召し遣われ、大恩を忘れ曲事致す、天命かくのごとし、

(中略)


ひとつ、 齋藤蔵助生け捕りて安土へ引くとうんぬん、天命天命、

 

(大意)

 

 

ひとつ、 明智光秀は十二日勝竜寺から逃げ出して、山科で一揆にたたき殺された。首も骸も都ヘ持ってきて、晒されたともっぱらのうわさだ。実にみじめな男だ。細川藤孝があいだに入って信長に引き立ててもらい、国の中心で能力を生かすことができ、信長のもとで分国を与えられたというのに、その大恩を忘れ道に背くことを行った。だから天罰が下ったのだ。

(中略)


ひとつ、 齋藤利三を生け捕って安土へ連れて行ったとのうわさだ。ああこれが宿命だったのだ。

 

 

*中間:「ちゅうげん/なかま」意味は時間的・空間的に離れて存在するものの中間(ちゅうかん)という意味。媒介。

 

*中国:畿内などの国の中心。ちなみに令制では国を「大国、上国、中国、下国」の四等級に分けており、そのうち光秀の分国である丹波は上国にあたる。

 

*恩:信長から与えられた分国。主従関係は「御恩」(=土地)と「奉公」(=軍役)の双務的関係から成立し、命を懸けて一所を守ることから「一所懸命」という慣用句が生まれたといわれる。しかし「一所懸命」はもはや死語となっている。