先日、以下の記事を書いた。
japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
この記事で「明治に入るまで、山野河海の利用は基本的に地元の慣行に委ねられていた。また、この轆轤師のように特定の免許を受けた者も自由に利用できた」と述べたが、ここでなぜ免許が必要となるか、触れなかった。そのため、意味不明な説明になってしまった。あらためてこの点について説明したい。
1.山野河海の利用は「地元」の慣行に委ねられていた
2.轆轤師のように有力者の免許を受けた者も自由に利用できた
ここで1と2の間には山野河海の利害をめぐる対立が生じる。なぜなら、諸国をめぐる轆轤師と地元の住民とは面識もなければ、意思の疎通もない。たがいに見知らぬ「不審者」である。とくに定住する人々から見れば、轆轤師のように諸国を自由に出入する流浪の民はそう見えるだろう。この場合両者の力関係は平等でも対等でもない。「地元」が圧倒的に有利である。今風にいえば「ホーム」と「アウェイ」のようなものだ。
そこで轆轤師などのような人々がよりどころとするのは有力者、ことに皇族などの最有力者による「保護」つまり免許である。
彼らが山に入るさい、地元の住民に咎められるのは明らかだ。
豊臣政権の成立まで、自力救済の世界だったからだ。日本中世の刑事訴訟は一言で言えば「獄前の死人、訴えなくんば検断なし」、つまり死体が転がっていても、その死体の遺族などの関係者が「犯人を捜し出してくれ」と訴え出なければ、警察権の発動はない世界である。村同士水などの資源をめぐって合戦を起こしていた頃、見知らぬものが資源の宝庫である山に入ればただでは済まない。
その際決め手となるのが免許状である。水戸黄門の印籠よろしく「朱雀天皇の綸旨である」と地元民に見せることで、なんとかその場を乗り切ろうとした、必ずしもうまくいくとはいえないが・・・。
地元と諸国を自由に出入りする者たちのあいだを、穏便に処理する一手段が有力者の免許状である。