あるドキュメンタリー番組をみたところ、船内でPCと格闘する学生のインタビューでおかしな場面に遭遇した。
学生「卒論発表会の資料を作っているんです」
確かにプリントアウトされた資料が周囲に散乱しており、一目でプレゼンテーション用ソフトで作成されたものであることがわかる。
少なくとも卒論の草稿らしきものは見当たらない。
ところがナレーションは「卒論書いているんですね」という。このインタビュアーは失礼なことに相手の話を聞いていなかったのか、それとも卒論は提出すれば「はい終わり」とでも認識していたのだろうか。
小説やドラマでも就職活動に悩む学生はしばしば主人公になるが、卒論に取り組む4年生は一切登場しない。まるで内定してしまえば自動的に卒業できるといわんばかりの描写だ。学業より就職が優先される、日本の高等教育が抱えるジレンマをそこに見いだすこともできる。
まして、口頭試問という地獄の1時間は無理だろう。
卒論は提出したのち、自分の指導教員が主査となり、ほかに卒論のテーマに近い分野の教員が副査となり、1時間ほど根掘り葉掘り主張の趣旨を問われる。女子のなかには泣き出す者もいた。ふだんはニコニコ温厚な先生でもこの時ばかりは容赦ない。
これを乗り越えてはじめて卒論は評価の対象となる。
さらに卒論発表会では、下級生や同級生、院生、口頭試問に加わらなかった先生も参加しての質疑応答がある。くだんの学生はこの時のためのレジュメを作っていたのだ。
番組スタッフの、卒論に対する認識が、大風呂敷を広げた言い方をすれば高等教育への認識がどのようなものかをこのインタビューの齟齬に見た気がする。