原文書の出典を東京大学史料編纂所「日本古文書ユニオンカタログ」で探したところ、静岡県史と戦国遺文今川氏編、群書類従巻511だったので、国立国会図書館デジタルコレクションにあたってみた。 92コマ~104コマ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559258?tocOpened=1
また「大武鑑」でも同サイトから見つけられる。「大武鑑」橋本博 編 出版者 大洽社 大武鑑 巻之1 1935年 43コマ~44コマ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015270
永禄六年諸役人附
光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚
永禄六年五月日
御供衆
(中略)外様衆 大名在国衆 号国人 (国人と号す)
(中略)織田尾張守信長 任弾正忠 (弾正忠に任ず)
(中略)
関東衆
(中略)
南部大膳亮 奥州
九戸五郎 奥州二階堂
(以下略)
*二階堂:二階堂氏と解釈される。
原題は「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(光源院殿みよ当参衆ならびに足軽以下衆おぼえ)で、編者である塙保己一が「永禄六年諸役人附」と名付けたのかも知れない。光源院は足利義輝であり、「足利義輝の時代に、将軍義輝のもとへ参上する者たちと幕府のもとで警護にあたる者の覚書」という意味になる。戦国期足利幕府がこの史料のとおりだったとすれば、幕府という軍事組織は機能していたことになる。
「外様衆 大名在国衆」には、朝倉義景、大友宗麟、北条氏康・氏政父子、今川氏實(ママ)、上杉輝虎、武田晴信、織田信長などが見える。九戸政実は「関東衆」に列せられており、信長より一段格下の可能性がある。
また「外様衆大名在国衆」に「国人と号す」とある点は興味深い。外様衆の勤めは「長禄二年以来申次記」によれば1月1日、4日、その他の月には毎月1日に出仕することとある(古事類苑官位部48、大名、1395頁)。永禄6年は1563年、長禄2年が1458年で1世紀以上の開きがあり、その間に応仁・文明の乱が勃発している。ただ、上洛は足利幕府への奉公=軍役を果たす義務であり、主従関係の基本である。毎月1日、出仕しなければならないという意識が幕府と外様衆に共有されていた可能性もある。
なお、足軽衆について「武家名目抄」は「恪勤(かくご)の先走をつとむる人をいへる也、後の世にいふ足軽同心のことにはあらず」(同上書、1264頁)と説明する。つまり、宿直など幕府内部の雑役に従事した者たちという意味であり、後世の足軽とはまったくの別ものである。