史料1 天正15年11月8日桑原百姓宛北条氏朱印状
人足壱人御倩(=請)以鍬箕を持
来、十二日山中へ集中十日
可致普請、倩賃永楽六十文
本松田兵衛太夫前より可
請取候者也、仍如件、
丁亥
十一月八日(朱印)
桒原
百姓中
(書き下し文)
人足一人御請け雇い賃をもって鍬、箕を持ち来たり、十二日山中へ集まり中十日普請いたすべし、雇い賃は永楽六十文本松田兵衛太夫前より請け取るべく候ものなり、よってくだんのごとし、
*倩賃永楽六十文:賃金は永楽銭で60文。鐚銭4枚で永楽銭1枚という交換比率。永楽銭の通用が禁じられるのは慶長年間。
*本松田兵衛太夫前:松田康長の被官?「小代官」か?
ただし黒田基樹氏の作られた一覧表には見えない。
*丁亥:天正15年
*桒原:相模国足柄上郡桑原郷(現小田原市)か伊豆国田方郡桑原村(現静岡県函南町)か?
Google Mapsより作成
史料2 「渡辺水庵覚書」
渡辺水庵(了)についての「名将言行録」での記述はこちら
259コマ目から265コマ目まで
国立国会図書館デジタルコレクション - 名将言行録. 前編 下巻
高きつくへ乗上見申候
*つくへ:脚付きの台
城中之鉄炮を不残一度につるへ、同しくときをとつと上ケ申候、
*とき:鬨の声
*とつと:「どっと」唐突に、突然に
五六十も鉄炮手負死生(死傷)之者にて
其段せはく候へハ敵味方上か上へ重り北と西との角城へ過半なたれ矢くらの段も落居と事候(虫損)、
*せはく:せまく
北条御成敗議定候間、
其直ニ黒河江被成御籠
入政宗可被作刎首ニ落
着候
*御成敗議定候間:北条氏の負けは必定なので
*御籠入:駕籠に乗って黒河へ入ることで「御」がついていることから秀吉の奥州入りの意。
(書き下し文)
北条御成敗の儀さだまり候あいだ、そのすぐに黒河へ御籠いれ、政宗首を刎ねなさるべく落着候