大日本史料の天正10年6月17日条に収載された古記録類に次のような記述が見える。
「言経卿記」
六月十五日、一、惟任日向守、醍醐辺ニ牢籠、則郷人一揆トシテ(=シテは合字)打之、首本能寺へ上了、
十七日、
- 日向守内齋藤蔵助、今度謀反随一也、堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六條川原ニ被誅了、
七月二日、戊午、天晴、
- 粟田口ニ去□日ニ明智日向守首ムクロ等続張付ニ懸了、齋藤蔵助同前也、其外首三千余、同所ニ首塚ヲ被築了、
「兼見卿記」(六月条)
十八日、乙亥(ママ)、生捕齋藤内(ママ)蔵助、上洛、令乗車渡洛中、於洛中三條川原刎首、日向守同前曝之、於片田(堅田)伊加伊(猪狩)半左衛門搦捕云々、
廿三日、庚申(ママ)、日向守齋藤内蔵助築頸塚、粟田口之東(数字虫損)之北云々、自廿二日築之云々、奉行鑿原、村井清三(以下略)
(書き下し文)
「言経卿記」
六月十五日、ひとつ、惟任日向守、醍醐あたりに牢籠し、すなわち郷人一揆としてこれを討ち、首本能寺へあげおわんぬ、
十七日、
ひとつ、日向守内齋藤蔵助、このたび謀反随一なり、堅田に牢籠し、すなわち尋ね出し、京洛中車にて渡され、六條川原において誅せられおわんぬ、
七月二日、つちのえ、てんせい、
ひとつ、粟田口に去る□日に明智日向守首・ムクロなどつづけて磔に懸けおわんぬ、齋藤蔵助同前なり、そのほか首三千余、同所に首塚を築かれおわんぬ、
「兼見卿記」(六月条)
十八日、きのとい(ママ)、生け捕り齋藤蔵助、上洛し、洛中乗車渡しせしめ、洛中三條川原において首を刎ね、日向守同前にこれをさらし、片田において伊加伊半左衛門搦め捕るとうんぬん、
廿三日、かのえさる、日向守齋藤内蔵助(の)頸塚を築き、粟田口の東(数文字虫損)の北とうんぬん、廿二日よりこれを築くとうんぬん、奉行鑿原、村井清三(以下略)
*牢籠:落ちぶれるという意味があることから、ここでは「落ちのびる」との意か。
*随一:先駆け、一番槍
*云々:文末を省略する意味ではなく、「人々が・・・と言っている」という意味。「猪狩半左衛門が堅田において搦め捕ったという話だ」という意味。