本能寺の変から1ヶ月後の天正10年7月、豊臣秀吉と徳川家康は何をしていたのか、まとめたのがこちら。
7月8日、秀吉は山城国三郡の、丹羽長秀は近江国滋賀郡の指出=検地を行っている。
一方家康は甲斐国へ攻め入っている。
史料1 秀吉
猶々、指出之儀出來次第、田邊へ持可來候、以上
態以折紙申入候、仍筑前守上山城三郡之儀被申付候、公家領・社領・神田・仕(佛)閣、其外山成物以下、不殘可指出候、若踏隱事於在之者、以來聞出次第可加成敗者也、
淺野彌兵衞尉
七月六日 長吉(花押)
大住
惣中
(書き下し文)
わざわざ折紙をもって申し入れ候、よって筑前守上山城三郡の儀申し付けられ候、公家領・社領・神田・佛閣、そのほか山成物以下、のこらず指し出すべく候、もし踏み隱すことこれあるにおいては、以來聞き出し次第に成敗を加うべきものなり、
なおなお、指出の儀出來次第、田邊へ持ち來るべく候、以上
*上山城三郡:山城北部の三郡。
*山成物:「やまなしもの」荘園制下の領主への公事系統の納入物。栗などかと思われる。
*踏隱:「踏む」には「損失を与える」の意味があるので、「ふみかくす」で正直に申告せず、田畑などを指出帳などに載せないこと。
(大意)
折紙にて申し入れます。羽柴秀吉が上山城三郡の指出を命じられました。公家領・社領・神田・佛閣、そのほか山成物以下、のこらず指出すること。もし田畑などを踏み隱すことがあれば、以後そういったことが聞こえたならば成敗を加えられるものとする。
なお、指出帳が完成したなら、田邊へ持参するように。以上。
史料2 家康
九一色諸商売之役、如前々之無相違令免許之者也、仍而状如件、
天正十年壬午
七月十二日(朱印) 大久保新十郎
奉之
*(朱印):徳川家康の朱印、印文は「福徳」
*大久保新十郎:大久保忠世でこのような者を「奉者」という。
(書き下し文)
九一色諸商売の役、前々のごとく相違なくこれを免許せしむるものなり、よって状くだんのごとし、
(中略)
大久保新十郎これを奉ず
(大意)
九一色諸商売にかかる諸役について、武田勝頼の朱印状の趣旨の通り免除する。