日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

生け捕りを信長はどうしたか 天正3年8月22日村井貞勝宛印判状写を読む

以前長篠合戦において生け捕りにされた者は人身売買の対象になる可能性が高いと述べたが、どうもそうではなかったようだ。別の合戦の史料であるが京都所司代村井貞勝宛に以下のように書き送っている。

 

  廿日書状、今日廿二、至府中到来、披見候、

一、此表之様子、去十七日申遣之状、則相届之由、得其意候、

一、木目(木ノ芽以下同ジ)・鉢伏追破、西光寺・下間和泉法橋・若林其外豊原西方院・朝倉三郎以下刎首候後、人数を四手ニわけ、山々谷々無残所捜出、くひをきり候、十七日到来分二千余、生捕七八十人在之、則くひを切候、同十八日、五百・六百つゝ方々より持来候、一向不知数候、十九日、原田備中守・滝川左近進(ママ)、茶箋(ママ)・三七郎・上野介ニ相副遣候、其手より六百余、氏家・武藤手にて、一乗可然者共三百余、柴田修理亮・惟住五郎左衛門尉、朝倉与三構要害楯籠候を攻崩、左右之者六百余討捕之、生捕百余人、則くひをきり候、廿日、ひなたかけと申山へ玖右衛門尉・前田又左衛門尉、其外馬廻者共遣之、千余人切捨之、生捕百余人、これも則刎首候、茶箋・滝川手にて於大滝・白山籠屋追崩、六百余、其外大滝・白山、鉄炮者共五十・六十つゝ切之、生捕十人・廿人つゝ到来、不知数候、廿一日、佐久間甚九郎手にて五百余、生捕十余人、則くひをきり候、

  (中略)

  八月廿二日              信長

   村井長門守殿

 

 

(書き出し文)

一、この表の様子、去る十七日これを申し遣わすの状、すなわちあい届くのよし、その意をえ候、

一、木目・鉢伏追い破り、西光寺・下間和泉法橋・若林そのほか豊原西方院・朝倉三郎以下首をはね候のち、人数を四手に分け、山々谷々残るところなく捜し出し、くびをきり候、十七日到来の分二千余、生け捕り七八十人これあり、すなわちくびを切り候、同十八日、五百・六百ずつ方々より持ち来たり候、一向数を知らず候、十九日、原田備中守・滝川左近進、茶箋・三七郎・上野介にあいそえ遣わし候、その手より六百余、氏家・武藤手にて、一乗しかるべき者ども三百余、柴田修理亮・惟住五郎左衛門尉、朝倉与三要害を構え楯て籠もり候を攻め崩ずし、左右の者六百余これを討ち捕り、生捕百余人、すなわちくびをきり候、廿日、ひなたかけと申す山へ玖右衛門尉・前田又左衛門尉、そのほか馬廻りの者どもこれを遣わし、千余人これを切り捨て、生捕百余人、これもすなわち首をはね候、茶箋・滝川手にて大滝・白山において籠屋追い崩し、六百余、そのほか平野土佐・あさみ、鉄炮の者ども五十・六十ずつこれを切り、生捕十人・廿人ずつ到来し、数を知らず候、廿一日、佐久間甚九郎手にて五百余、生捕十余人、すなわちくびをきり候、

 

(追伸部分)

廿日書状、今日廿二、府中にいたり到来し、披見し候、

 

 

(大意)

一、こちらの最前線の様子、去る十七日に遣わした書状が届いたのこと、承知しました。

一、木ノ芽峠と鉢伏城の敵は追い破り、西光寺・下間和泉法橋・若林そのほか豊原西方院・朝倉三郎以下首を刎ねたのち、軍勢を四方に分け、山々谷々残りなく捜し出し、残党全員のくびを斬りました。十七日到着した首が二千余、生け捕りが七八十人あり、すべてくびを斬りました。十八日、五百・六百ずつあちこちより首級を持参する者は増える一方で数え切れないほどでした。十九日、原田備中守・滝川左近進が茶箋・三七郎・上野介に連れ添って派遣しましたが、彼らの手により六百余の首級、氏家・武藤の手で、もっともすぐれた者ども三百余の首、柴田修理亮・惟住五郎左衛門尉は、朝倉与三が要害を構え楯て籠もっていたのを攻め崩ずし、抵抗する者六百余名を討ち捕り、その際生け捕りにした百余人も首を斬りました。廿日、日野山へ玖右衛門尉・前田又左衛門尉、そのほか馬廻りの者どもこれを遣わし、千余人斬り捨て、生け捕り百余人、これも首を刎ねました。茶箋・滝川手にて大滝・白山において立て籠もっている連中を追い崩し、六百余、そのほか平野土佐・浅見対馬が、鉄炮の者ども五十・六十ずつ斬り殺し、生捕十人・廿人ずつ運ばれ、数え切れないほどでした。廿一日、佐久間甚九郎の手により五百余、生け捕り十余人の首を斬りました。

 

(追伸部分)

二十日の書状、本日二十二日に府中(武生)に到着し、目を通しました。

 

 

 

 

*木目(木芽):木ノ芽峠畿内から北陸道への要衝とされる。現在は北陸トンネルがその下を通っている。

*鉢伏:天正2年に越前一向一揆が信長に対抗して築いた城があった。福井県今庄町にあたる。

*西光寺:石田山と号し、浄土真宗本願寺派に属する。現在は鯖江市にある。

*下間和泉法橋:下間少進の父親述頼(1534-75)で、本願寺支配下の加賀・越前両国の代官職を持つ。

*若林:谷口克広『織田信長家臣辞典』(1995年、吉川弘文館)によれば越中の国人として「助左衛門」「宗右衛門」が立項されているが、この越前一向一揆と関係あるのかは不明。

*豊原西方院:大宝2年創建。天正2年に越前一向一揆と同盟関係を結ぶ。越前国坂井郡

*朝倉三郎:朝倉景胤、浅倉義景の家臣。一揆の指導者下間頼照・頼俊の首級を持参し信長に降参したが、赦されず斬られた(谷口前掲書)。

*原田備中守:塙直政

*滝川左近進:滝川一益

*茶箋:北畠信意

*三七郎:織田信孝

*上野介:織田信包

*氏家:氏家直通

*武藤:武藤舜秀

*一乗:もともとは仏教用語で、ここではもっとも優れた者。

*柴田修理亮:柴田勝家

*惟住五郎左衛門尉:丹羽長秀

*朝倉与三:谷口前掲書によれば越前朝倉氏の一族で、この際は生き延びたらしい。弟宮増丸がのち足利義昭に兄与三に朝倉の名跡を継がせるよう求めた。

*左右:よみは「そう」で、あれこれ文句を言う者。ここでは抵抗する者どもの意。

*ひなたかけと申山: 日野山と思われる。

*玖右衛門尉:管家長頼

*前田又左衛門尉:前田利家

*大滝・白山:いずれも越前国今立郡。

*籠屋:「こもりや」 隠れて生活する家。年貢を納められずに逃亡した農民や、戦乱をさけた人々などが安全地帯に小屋掛けしてすんだ家。

*平野土佐:奥野高廣氏は平野定久とするが、谷口克広氏は生没年不詳の近江の土豪で諱は特定していない。

*あさみ:浅見対馬守か。

*鉄炮者共五十・六十つゝ切之:越前一向一揆側にも鉄砲隊と呼べるものがあったと推測されるので、長篠合戦が画期的な戦法をとったという認識は直後の信長にはなかったのかも知れない。

*佐久間甚九郎:佐久間信栄

*府中:越前府中。明治に武生と改称。

 

信長は生け捕りにしたものを売買せず、皆殺しにしたようである。つまり一旦信長と干戈を交えたらば、投降しても意味はないということになる。このような戦略の方が四方八方を敵に回していた信長は効果的と考えたのかも知れないが、結果的には敵を増やしただけだったようで、高く付いたことになる。

このひとつ書きだけで「一向不知数候」「不知数候」と二回も出てくるが、とにかく殲滅するだけで員数に興味がなかったのか、それとも話を盛っているのかなんともいえないが、勝利の高揚感が伝わってくるようだ。

「山々谷々無残所捜出くひをきり候」の一節は信長の徹底した姿勢がうかがわれる。朝倉与三三兄弟はよく逃げ延びたものである。