日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

年未詳7月18日大久保伝十郎・本多光信宛徳川信康書状写を読む

『愛知県史資料編11織豊1』に徳川信康松平信康)書状写が掲載されているので今回はこれを読んでみる。同県史によればこの文書は要検討であるものの信康発給文書がこの一通のみなので掲載するとある(840頁)。

  

  一六一三 徳川信康書状写  満性寺文書

 以一札申遣候、今十日夜申聞之通、遠州大久保七郎右衛門方へ可参間、前申遣分ニ心得可有之候、大久保心入ニ仍而、前申聞之通、存分ニ相極申候、跡ニ而満性寺安藤と此分申聞候、為亦々用文遣申候、以上、

   七月十八日           三郎(花押影)

  大久保伝十郎殿

  本多弥惣左衛門殿

 

  (書き下し文)

一札をもって申し遣わし候、今十日夜申し聞けの通り、遠州大久保七郎右衛門方へ参るべき間、前申し遣わす分に心得これあるべく候、大久保心入によって、前申し聞けの通り、存分にあい極め申し候、跡にて満性寺安藤とこの分申し聞け候、またぞろのため用文遣わし申し候、以上、

   七月十八日           三郎(花押影)

  大久保伝十郎殿

  本多弥惣左衛門殿

 

*大久保七郎右衛門:大久保忠世

 

*満性寺:正応2年(1289)創建。三河国額田郡、現在の岡崎市菅生。永禄年間の三河一向一揆では家康側に味方した。

 

*安藤:『日本歴史地名大系・愛知県』(平凡社)によれば「菅生村古屋敷として『満性寺領内倉橋惣左衛門、安藤孫四郎、田中五郎右衛門』の三人の屋敷」があったとしているので安藤孫四郎の関係者かも知れない。

 

*三郎:徳川信康

*大久保伝十郎:不明

 

*本多弥惣左衛門:本多光信