松平(徳川)信康発給文書は、東京大学史料編纂所「日本古文書ユニオンカタログ」データベースおよび「大日本史料総合データベース」によれば写のみ2点残されている。そのうち、天正6年と推定されている11月12日付のものを読みたい。
覚
一、東者調へ道際境、
一、南者川原面道際境、
一、西者山入村与神谷道峯道際境、
一、北者川口村々散在峯道際境、
右之内田畑山林不残如先規之宝生寺領御縄面ニ付申処無子細条書付進申候、以上、
寅十一月十二日 信康(花押)
野山左五郎
内藤角右衛門
(書き下し文)
覚
一、 東は調べ道を際境、
一、 南は川原面道際境、
一、 西は山入村と神谷道峯道を際境、
一、 北は川口村々散在の峯道を際境、
右のうち田畑山林残らず先規のごとく宝生寺領御縄面につけ申すところ子細なきの条、書付まいらせ申し候、以上、
寅十一月十二日 信康(花押)
野山左五郎
内藤角右衛門
村名、寺名、人名ともいずれも不明の上、文体がどうにも落ち着かない。謎だらけの文書だ。
「御縄面ニ付」とあるように、この文書が事実とすれば信康は検地を行っていたことになる。