前回読んだ秀吉文書の宛所にあった堀尾吉晴の息子忠氏発給文書が発見された。
画像は毎日新聞による。
https://mainichi.jp/articles/20171027/ddl/k32/040/418000c
知行方之目録
八百六拾石之内 出東郡
一、四百参拾石 宇賀之内
五千四百五拾石之内 同
一、五百四拾石 鹿塚之内
六百拾石之内 大原郡
一、四拾石 飯田之内
合千拾石
内
一、弐百石 内た太郎左衛門尉
一、弐百五拾石 七山与右衛門尉
一、百五拾石 今村喜介
一、百四拾石 寺井甚介
一、百四拾石 今村右衛門九郎
一、百参拾石 村上彦八郎
已上
右令割符可領知者也、
慶長六年
三月廿七日 忠氏(朱印「誉」)
これは出雲国の出東郡宇賀、同郡鹿塚、大原郡飯田から1010石集めて、6名の家臣に知行割を行うという文書である。
地理的に離れた郷村を10石単位で割り切ってしまえば、郷村単位で家臣に土地を分け与えることは不可能に近い。実態としては一家臣はあちらこちらに分散した土地を受け取ることとなり、郷村側としては複数の領主が支配する相給(あいきゅう)となる。これは例外ではなくむしろよく見られた現象である。
近世になると関東、京阪神などは幕府領(「天領」ではなく代官支配所と呼ぶ)、藩領、旗本領がひしめき合う村(領主は2、3人から20人以上まで)がほとんどであり、○○藩領のような領域的な支配はほとんど見られない。