第9、10条を読む。なお今回より長浜市立長浜城歴史博物館(『石田三成第二章』(2000年)から引用する。
一、其村々々ニて庄屋・肝煎此両人居やしき斗可相除事、
一、樹木之類何も今迄之地主・百姓進退たるへし、公方へ上り物ニて在之間しく候事、
(書き下し文)
一、その村その村にて庄屋・肝煎この両人居やしきばかりあい除くべきこと、
一、樹木の類いずれも今までの地主・百姓進退たるべし、公方へ上り物にてこれあるまじく候こと、
*其村々:上掲書では二の字点。「其村其村」
*間しく:間敷
(大意)
一、その村その村で庄屋・肝煎の両人の居やしきのみは検地帳に記載してはならない。
一、樹木の類いずれも今までの地主・百姓の自由にさせよ。公方へ上納させることのないようにしなさい。
9条では庄屋や肝煎などの村役人に対する給付として、屋敷地への課税を免除するように、としている。近世になると年貢割付状や年貢皆済目録といった年貢算用の文書に「名主給」や「庄屋給」として○○石は除く、と一旦計上した上で免除するという方法がとられるのだが、石田三成の検地においては検地帳に記載しないことで給付としていたようだ。
10条でいう樹木は梅や柑橘類などと思われるが、これについてもどうも検地帳へ記載しないという方針だったようだ。
この二条から三成、あるいは秀吉の時代ではすべてを計算した上で控除するという方法ではなく、検地帳に記載するか否かで免除するという方針だったことが分かる。