昨日以下の記事を書いたが、「あり」ではなく「あか」と読み「英賀」を指すのではという話を小耳に挟んだので、弁明(=逃げ道を用意)したい。
japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
仮名の「か」と「り」はよく似ていて、伊地知鐵男編『増補改訂仮名変体集』(1966年初版、新典社)でも「りはわ・か・れ・ると誤りやすい」とある(32頁)。
実際にこういったサイトもあるくらいだ。
#くずし字 変体仮名の「可」がいろんなものに似すぎている件 | 超・珍獣様のいろいろ
同サイトの画像から引用。
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/wp-content/uploads/2016/05/IMG_5079s.jpg
姫路市飾磨区に英賀という地名があるので、ここを本貫とする地侍の可能性もある。ただ確認はできなかった。
いずれにしろ秀吉の陪臣であり、そこまで支配が及ぶとなると、小出秀政との主従関係はわりと限定的だったといえる。陪臣の立場でいえば、主人が自身の扱いを等閑視すれば越訴、つまり段階を超えて秀吉に直接訴え出ることで待遇改善ができるということになる。越訴の代表例が時代劇で見る直訴であるが、これは身分制度を揺るがしかねないもので、現代でもあまり望ましいこととはされていない。そういう点でも興味深い史料である。
信長、家康にくらべて秀吉発給の文書はかなり多く、事実信長、家康の文書集は刊行されて久しいが、秀吉のものは全9巻のうち天正16年までの3巻しか出ていない。軍記物や講談、時代劇などでイメージが固まっている感があるが、一次史料の全貌はまだまだ把握できていない。今後も新発見はあり得るだろうし、逆にあったはずのものが散逸していることもある。現在デジタル化によって多くの情報が得られることは確かであるが、現物に触れないと得られないものもある。秀吉研究はまだ緒に就いたばかりである。