日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

永禄11年11月9日 祝田郷宛、次郎直虎・関口氏経連署の徳政に関する文書を読む

Googleで古文書を画像検索したところ、今話題の井伊家の文書が出てきた。すでに『大日本史料』第10編1冊687~688頁に掲載されているが、「百姓」は原文で「百性」となっているので、あらためて翻刻してみた。写真はこちらのサイトから引用させていただいた。

テーマ展「井伊直虎と湖北の戦国時代」/浜松市

 

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/02tenji/theme/images/iinaotorasekigutiujitunerensyojyou.jpg

 


 

(折紙)
祝田郷徳政之事者
去寅年以御判形雖被
仰付候、銭主方令難
渋干今就無落着、
本百性被訴訟之条、
任先御判形旨申付
処也、以前々筋目名
職等可請取之、縦
銭主方重而雖企
訴訟不可許容者也、
仍如件、
(上段終わり)
      関口
永禄十一辰  氏経(花押)
  十一月九日
      次郎
       直虎(花押)
       
  祝田郷
    祢宜
    其外百性等

 (書き下し文)

祝田郷徳政の事は、去る寅年御判形をもって仰せ付けられ候といえども、銭主方難渋せしめ今に落着なきについて、本百性訴訟せらるるの条、先の御判形の旨にまかせ申し付くところなり、前々の筋目をもって名職等これを請け取るべし、たとい銭主方重ねて訴訟を企つるといえども許容すべからざるものなり、よって件のごとし、

*去る寅年:永禄9年に今川氏真が出した徳政令を指す。

*御判形:花押が据えてある文書。

*銭主方:中世日本における債権者のこと

銭主 - Wikiwand

*本百性:本百姓といえば太閤検地後、検地帳に耕作人として名前が記された者(=名請人)を指す場合が多いが、ここでは名主(ミョウシュ)百姓など「名主職」(ミョウシュシキ)、「作職」、「百姓職」など「職」(シキ)をもつ村人を指す。村の中で「一人前」とされた百姓を指すものと思われる。その下には「名子」「被官」「下人」と呼ばれる者もいたが、彼らは人身売買の対象になっていた隷属的な存在であった。

kotobank.jp

*前々の筋目:以前からの道理。

*名職:荘園体制下においては様々な権利が、職(シキ)の体系として統一されていた。「名主職」「百姓職」「作職」などがある。そのうちのひとつ。

これは現代の多重請負構造を想像していただければいいのではないかと思う。

荘園領主(貴族や寺社)

 ー荘官・地頭

  ー下司・地頭代・代官   

    ー地主・名主ー作職ー下作職

関口氏経:今川家家中

関口氏経 - Wikiwand

*次郎直虎:井伊直虎

井伊直虎 - Wikiwand

*祝田郷:後の遠江国引佐郡祝田村静岡県引佐郡細江町。旧高旧領取調帳では1140石余。「ほうだ」とふりがなが振られている。

なお、『日本歴史地名大系』には以下のような説明がされている(引用はJapan Knowledgeによる)。

 

 

祝田郷・祝田  ほうだごう・ほうだ


細江町中川なかがわのうち、東部の都田みやこだ川両岸一帯に比定される。法田とも記される。応永六年(一三九九)将軍足利義満が側室寧福院に柴美濃入道の所領を与え、幕府御料所として今川仲高(仲秋)に代官を命じたうちの一つに「祝田郷」の名がみえる(同年九月一八日「管領畠山持国奉書」宝鏡寺文書など)。同三〇年一〇月二九日に祝田郷は足利義満の娘今御所に与えられ、斯波義淳が代官を命じられている(「管領畠山満家奉書」同文書)。永享三年(一四三一)三月二八日、幕府は三上美濃入道に対して借物のかたに入れられた祝田などを元どおり庄主に知行させるよう取計らうことを命じた(「幕府奉行人連署奉書」御前落居奉書)。嘉吉元年(一四四一)七月三〇日には幕府は遠江守護斯波義健に対し「今御所御領」の一つであった祝田などに乱入を企てる本主らの誅伐を命じている(「管領細川持之奉書」宝鏡寺文書)。

戦国期には当地の蜂前はちさき神社(祝田大明神)と領主井伊氏との結び付きが知られるが、それとは別に蜂前社と祝田禰宜は祝田百姓中(地下中)の惣的結合における精神的紐帯でもあった。このことは、天文一五年(一五四六)八月二四日に井伊直盛が祝田百姓中に対し、脇者・下人が地主に背いて他の者の被官や烏帽子子となる契約を結ぶことを禁じ、違反した者は地下中の談合によって成敗するよう命じたことなどに現れている(「井伊直盛判物写」蜂前神社文書など)。同八年五月一二日には井伊直盛が祝田の喜三郎に一〇貫文の給分を与えた(「井伊直盛判物写」同文書)。その後も井伊氏と百姓中との間ではさまざまな取決めがなされ、同二四年三月一三日には領主からの夫食の提供は年貢催促の際に限定し、近場の人足などの用については支給しないこととされた(「井伊直盛判物写」同文書)。弘治二年(一五五六)には祝田地内の鯉田こいだに関して、水損のための年貢減免を求める百姓中の要求により二〇貫文の年貢額が一四貫文に引下げられ(同年一二月一八日「井伊直盛書状」同文書)、瀬戸方久を代官として一七人に割付が行われた(同年「井伊直泰坪付」同文書)。永禄七年(一五六四)七月六日には井伊万千代(のちの直政)が祝田の一二〇貫文の年貢の配分を行っている(「井伊直政年貢割付」同文書)。

永禄一〇年から翌年にかけ、井伊谷いいのや徳政の実現交渉をめぐって祝田禰宜駿府での交渉役である匂坂直興との緊密な連絡にあたっている(同一〇年一二月二八日「匂坂直興書状」蜂前神社文書など)。交渉の結果、同一一年八月三日には祝田郷に惣次の徳政が実現することが伝えられ(「匂坂直興書状」同文書)、翌日には今川家家臣関口氏経から井伊谷徳政の施行が命じられた(「関口氏経書状」同文書など)。一一月九日には関口氏経井伊直虎から祝田郷の禰宜・百姓らに対し徳政を命じたので名職などを請取るよう命が下された(「井伊直虎関口氏経連署状」同文書)。しかし実際には有力銭主である瀬戸方久が、「祝田十郎名」をはじめ井伊谷所々での買得地を今川氏真から安堵されているなど(永禄一一年九月一四日「今川氏真判物」瀬戸文書)、その効果がどれほどのものであったか疑わしい点もある。天正一七年(一五八九)七月七日、徳川家から「法田百姓等」に宛て七ヵ条の条規が定められた(「徳川家七ヵ条定書写」御庫本古文書纂)。

 

japanknowledge.com

 

*祝田祢宜:祝田郷の有力者。祢宜は神職のひとつ。

*其外百性等:ここでは「本百姓」と呼ばれた名主職などをもつ百姓。必ずしも自身が耕しているとは限らない。

 

写真を見ていただければ分かるように、この文書は横折りで右上から書き始めるが、余白がなくなると上下を逆さまにしてまた書き始めるというスタイルを取っている。これを古文書学では「折紙」と呼ぶ。この折り目にしたがって切り取れば「切紙」になる。このような文書の形態も重要な情報である。

 

ちなみに「新発見」の光秀による土橋宛書状は、切紙を糊で貼り継いだものである。

 

www3.nhk.or.jp

 

ただし、こういった有名人の文書は往々にして掛け軸に表装されてしまうことが多く、鑑定番組などでも大抵は掛け軸として持ち込まれるが、この書状はもとの形態をそのまま伝えている。その意味でも光秀書状の伝存状況はきわめて良好といえる。あるいは、明智光秀の世間的な評判から表装し床の間に飾るのをためらったのかも知れない。いずれにしても、原本であることとあいまって貴重な発見だった。

 

この井伊谷徳政については阿部浩一『戦国期の徳政と地域社会』(2001年、吉川弘文館)、夏目琢史『井伊直虎』(2016年、講談社現代新書)などの詳細な、あるいは丁寧な解説があるのでそれらによられたいが、ここで注目したいのは「本百性訴訟せらるるの条、先の御判形の旨にまかせ申し付くところなり、前々の筋目をもって名職等これを請け取るべし、たとい銭主方重ねて訴訟を企つるといえども許容すべからざるものなり」の部分である。

 

 

「訴訟」はここでは「不平不満や要求などを申し出ること。請願。嘆願」の意味である。

 

www.weblio.jp

 

つまり、本百姓等が(徳政をせよと)不平不満を言い募るので氏真の文書にある徳政令を施行するところである。これまでの道理にしたがって「名職」を(債務者が)受け取りなさい。かりにまた債権者たちが不満を言ってきたとしても取り上げることはないので安心しなさい、といっている。

 

関口氏経は今川の家臣であり、井伊直虎連署しているところからこの約束は井伊のみならず、今川家によっても保証されることを意味する。また「名職」なるものが債務の抵当として有効だったのは、ここから何らかの収入が見込まれたためである。土地の所有権が一元化された近現代とは異なり、荘園体制下では上述したように「職の体系」と呼ばれる権利がひとつの土地にいくつも存在していた。その権利とは具体的には地代である。多重請負構造の仲介料などと同様に「加地子」と呼ばれる様々な地代収入が得られたのだ。

 

銭主(債権者)たちは自ら耕作しようなどとは考えず、この地代を目当てに名職を抵当として価値あるものと考えたのだ。

 

 

最後にひとつだけ疑問に感じていることを述べたい。それは差出人と宛所の配置である。ここに両者の社会的関係が如実に表れるのだが、関口氏経井伊直虎に対して祝田郷祢宜、百姓の位置が上にあることだ。

 

たとえば次の文書の差出人と宛所の位置に注目していただきたい。

 

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/gohojyo/collection/media/SK01_L.jpg

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/gohojyo/collection/d_collection_51_zoom.html

       (神奈川県立歴史博物館蔵)

この史料では北条氏康と同じ高さのところに「桜井とのへ」とある。この「とのへ」も「殿」の崩しが甚だしいパターンであり、それは敬称のなかでもっとも軽い部類に属することを意味していた。

 

 

http://www.city.sakado.lg.jp/images/content/44981/20080213-164446.jpg

 

http://www.city.sakado.lg.jp/images/content/44981/20080213-164446.jpg

 

上の史料は写真が小さく読みにくいが、後北条氏の虎の印判の下に「戸田小代官百姓中」とあり、百姓たちに対して尊大な態度を見せている。

 

http://4.bp.blogspot.com/-QBJfYGxBFWo/VHsY3QBb8cI/AAAAAAAAGjg/OYp8Chj-Ibk/s1600/daiguuji_fuji.png

http://fujinoyama.blogspot.jp/2012/01/blog-post.html

 

この史料では虎の印判のやや下に「美濃守殿」とある。先ほどの氏康の場合が「とのへ」だったのに対して「殿」としっかり書いていること、戸田百姓中宛のものより相対的に上に位置しているところから「桜井」よりは厚遇しているといえる。

 

 

これら三点は後北条氏発給の文書であるため、今川支配下遠州と書札令(文書におけるドレスコード)が異なっていただろうが、あまりに百姓中に対して下手に出ている感じがする。在地に根を下ろした土豪国人領主、国衆と百姓の関係は案外近かったのではないだろうか。

 

kotobank.jp