日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの古文書オタ、いえ歴史学徒として史料を読んでいきます

明智光秀の最期を伝える史料

明智光秀の最期を伝える史料を今日は紹介したい。引用は三鬼清一郎編『稿本豊臣秀吉文書(1)』(2005年、私家版)92~93頁「325高木文書」による。

 

325(高木文書)  東京大学史料編纂所架蔵影写本

 御状拝見申候、如仰、今度京都不慮之仕合、無是非儀ニ候、

一、西国之儀、悉存分申付、京面罷上候事、

一、去十三日、明智勝竜寺相拘、山崎面へ罷出候節、及一戦、即時ニ追崩、悉討果、首三千余討捕申候事、

一、明智首相尋候節ニ、山科藪中ニかくれ居申候、□迄切捨置候旨、見出候事、

一、斉藤内蔵助、二人子共相連、たつな斗ニて落行候節、郷人おこり候て、両人之子共首切り、蔵助ハ生捕ニ仕、なわかけ来候条、於天下車乗わたしニて首切、かけ申候事、

一、坂本明智居城へハ、明智子二人、明智弥平次帰候旨切、殿守焼崩馳候事、

一、今度江州明智同意輩、或ハ命ヲ助、召出候事、

一、爰元陣明候条、明日其国へ相越候条、以面可申入候、御身上之儀、不可有疎意候、御子息何とやらん、承候、無心元候、旁期後音候、恐々謹言、

  (天正十年)         羽柴

     六月十九日          秀吉 書判

    高木彦左衛門殿

          御報

*勝竜寺:現在の京都府長岡京市勝竜寺、本能寺の変により明智光秀の属城となる。詳細はこちら。

勝竜寺城 - Wikipedia

勝竜寺城公園の紹介 | 長岡京市公式ホームページ

 

*山科:現在の京都市山科区。こちらを参照されたい。

山科区 - Wikipedia

http://www.city.kyoto.lg.jp/yamasina/cmsfiles/contents/0000041/41732/houkokusyo.pdf

kotobank.jp

 

*□:虫損、破損など、あるいは判読不能な文字

 

*斉藤内蔵助:斎藤利三明智光秀の重臣なので織田信長の陪臣にあたる。

斎藤利三 - Wikipedia

 

*たつな:下帯、ふんどしのこと(『邦訳日葡辞書』620頁)

 

*斗:「計」を崩すと「斗」と区別がつかなくなるので、翻刻者によってそのまま残す場合と「計」とする翻刻者に分かれる。変体仮名を残したくとも活字があるもの、ないものがあるために悩ましい問題である。翻刻史料が一次史料といいがたいともいえる。

 

 *郷人おこり:「おこる」は起こるで、村人が多人数でくり出す、蜂起(ほうき)すること。

 

*蔵助:内蔵助のこと

 

*明智弥平次:光秀の娘婿にあたる明智秀満(?~天正10年6月14日)。光秀の重臣。

 

*殿守:天守のこと

 

*後音:「コウイン」のちの手紙。あとから書き送る手紙。

 

*書判:花押のこと。書いた判だから書判。それに対して「天下布武」印や朱印などを印判と呼び、区別する。

 

*高木彦左衛門:高木貞久(生没年不詳)。清洲会議で信孝に属したが、その後の消息は不明。谷口克広氏は文中の「 御子息何とやらん承候」について、高木一族から秀吉方に人質を送られたのであろう、としている(同『織田信長家臣人名辞典』228頁、1995年、吉川弘文館)。

 

(書き下し文)

 

 御状拝見申し候、仰せのごとく、今度京都不慮の仕合せ、是非なき儀に候、

一、西国の儀、ことごとく存分申し付け、京面へ罷り上り候事、

一、去る十三日、明智勝竜寺相拘り、山崎面へ罷り出で候節、一戦におよび、即時に追い崩れ、ことごとく討ち果し、首三千余討ち捕り申し候事、

一、明智首あい尋ね候節に、山科藪中にかくれ居り申し候、□迄切り捨て置き候旨、見い出し候事、

一、斉藤内蔵助、二人の子共あい連れ、たつなばかりにて落ち行き候節、郷人起こり候て、両人の子共首切り、蔵助は生け捕りに仕り、なわかけ来り候条、天下において車乗わたしにて首切り、かけ申し候事、

一、坂本明智居城へは、明智の子二人、明智弥平次帰り候旨切、殿守焼け崩れ馳せ候事、

一、今度江州明智同意の輩、あるいは命を助け、召し出し候事、

一、ここもと陣明き候条、明日その国へあい越し候条、面をもって申し入るべく候、御身上の儀、疎意あるべからず候、御子息何とやらん、承り候、心もとなく候、かたがた期に後音に候、恐々謹言、

  (天正十年)         羽柴

     六月十九日          秀吉 書判

    高木彦左衛門殿

          御報

 

(大意:追伸部分は後回しにする)

 

 一、西国の件(毛利との和睦)ですが、すべて整いましたので京都へ上洛いたしました。

 

一、去る十三日、明智は勝竜寺城にこだわり、山崎方面へ出発しましたとき、一戦におよび、即時に追い崩れ、ことごとく討ち果し、首を三千余ほど討ち捕りました。

 

一、明智の首がどこにあるか尋ねて回りましたときに、山科の藪の中にかくれておりました。□迄切り捨て置いたことを知りました。

 

一、斉藤内蔵助は二人の子どもを連れて、ふんどしのみの姿で落ちのびていきましたとき、郷人が多数出て、斎藤利三の子どもふたりは首を切り、利三は生け捕りにして、縄で縛って連れてきた来ましたので、京都において車に載せて引き回し、首を切り、梟首にいたしました。

 

一、坂本の明智居城へは、明智の子がふたりおり、明智秀満が帰ったときには、天守が焼け崩れており、駆け寄ったようです。(秀満が二人を殺害し、自害したと他の史料に見える)

 

一、この度近江で明智に同意した者の中には、命を助け、呼び寄せました者もおりました。

 

一、そちらの陣が空きましたので、明日そちらへ出掛けます。直接顔を合わせて種々申し入れます。本領安堵の件ですが、避けようとすることはなりません。御子息のことはそれとなく耳にしております。さぞご心配でしょう。詳しくはいずれ後の手紙にて。恐々謹言。

(文頭の追伸部分)

ご書状拝見いたしました。おっしゃるとおり、この度の京都での突然の出来事、なんとも言葉にできません。

 

 

 

 

先日報道された明智光秀の書状も同様であるが、手紙の書き方は一般に文頭に追伸をもってくるという点がまず重要である。

 

ここで興味深いのは4条目である。中世後半以降郷村は武装し、他村と水や山林などの利用をめぐって合戦を行っていた。子どもは報償の対象にならないと考えたのかその場で殺害し、重臣である斎藤利三だけを生け捕りにして、秀吉に差し出した。当然、利三は処刑されるだけでなく、さらし者にされると考えたのであろう。ふんどし姿になったのは、身分を隠して落ちのびようとしたからだろうか。勝利した秀吉としては、「哀れな姿になって」という意味もあったのか知れないが。

 

光秀の最期についてはあっさりとしているが、斎藤利三のそれは詳細である。秀吉が処刑したため、詳細に書いているのかわからないが、いずれにしても信長の弔いとして、自慢に値するものではあったろう。ただ、だからといって秀吉が織田政権から権力簒奪をすでに意識していたとするのは早計であろう。織田政権から羽柴=豊臣政権への移行に関する政治過程はいまだ明らかとは言いがたい。我々が、後に豊臣政権が成立するという史実を知っているという先入観は、有害無益であることを断っておきたい。

 

「光秀の最期」と銘打ちながら、結局斎藤利三の最期になってしまった羊頭狗肉を最後にお詫びして、筆を擱く。