本能寺の変直後、この事件を史料でどのように表現していたかを今回考えてみたい。史料は以前と同じ『愛知県史資料編11織豊1』から引用し、同書による史料番号と頁数を明記する。
史料1
1513.家忠日記(788頁)
(六月)
三日己丑 (中略)酉刻ニ京都にて上様ニ明知日向守・小田七兵衛別心にて御生かい候よし、大野より申来候、
(中略)
ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也
*上様:織田信長
*明知日向守:明智日向守光秀
*小田七兵衛:織田信澄(1558頃~1582/06/05)信長が誅殺した、弟信勝(信行)の子、すなわち信長の甥。妻は光秀の娘。谷口克広氏によれば、光秀との共謀はありえない上、光秀に助力しようとする素振りさえうかがえないが、信孝・長秀によって梟首されたことで謀反人とされたという(同『織田信長家臣人名事典』109頁)。
*生かい:生害
*セツ:説(うわさ、風聞)のこと
(書き下し)
三日つちのとうし(中略)酉の刻に京都にて上様に明知日向守・小田七兵衛別心にて御生害候よし、大野より申し来たり候、
道にて七兵衛殿別心は説なり、
(大意)
六月三日つちのとうし(中略)酉の刻限(18時頃、「暮六ツ」ともいう)に京都で信長様が明智光秀と織田信澄によって殺されたとの報告が、大野より来ました。
途中七兵衛殿の謀反は噂であるとわかった。
ここでは「京都にて上様御生害」と呼ばれている。
もうひとつ興味深いのは、信澄への敬称の有無である。最初は謀反人ということで呼び捨てになっているが、それがうわさに過ぎないとわかった時点で「七兵衛殿」とされている点だ。
史料2
1517.徳川家康書状(折紙)(789頁)
今度京都之様躰無是非儀候、其付而(一字闕字)上様為御弔我々令上洛、さ様候へハ今日十四日至鳴海出馬候、然者此節可有御馳走之旨水野藤助舌頭ニ候、弥以大慶候、諸事於御入眼者可為本望候、尚委細彼口上ニ相含候、恐々謹言、
六月十四日 家康(花押)
吉村又吉殿
*(一字闕字)上様:織田信長
http://www.city.nagoya.jp/midori/cmsfiles/contents/0000057/57984/15.siryouhen.pdf
*水野藤助:水野長勝
*入眼:ここでは物事が成就すること。
*吉村又吉:吉村氏吉
(書き下し)
このたび京都の様躰是非なき儀に候、それについて(一字闕字)上様御弔のため我々上洛せしめ、左様候へは今日十四日鳴海にいたり出馬候、しからばこの節可有御馳走あるべきの旨水野藤助舌頭に候、いよいよもって大慶に候、諸事御入眼においては本望たるべく候、なお委細かの口上にあい含め候、恐々謹言、
ここで信長を「上様」と呼び、その上一字空欄にして敬意を表す闕字表現がとられていることに留意されたい。もちろん、明智光秀方が謂うところの「上意」とここでいう「上様」が同じ人物を指すのかは必ずしも一致するとは限らない。それぞれの立場により、敬意を表すべき対象が異なったり、あるいは一致したり様々なのだ。一言で「貴人」を指すといっても一義的に決まるとは言いがたい。
史料3
1519.徳川家康書状写(790頁)
来状委細披見本望之至候、如仰今度京都之仕合無是非次第候、乍去若君様御座候間、致供奉令上洛、彼逆心之明智可討果覚悟ニ而、今日十四至鳴海出馬候、殊其地日根野方、金森方一所江被相談候由、弥以専一候、此者万々御馳走可為祝着候、尚追々可申述候間、不能一二候、恐々謹言、
六月十四日 御名乗直判
佐藤六左衛門尉殿
*金森:金森長近
*御馳走:走り回ること、奔走することから、転じて人をもてなす食事を出す意味になった。ここでは振る舞うこと。
*御名乗:「おんなのり」家康を敬って実名を書くことをはばかった書き方。近現代だと原本に天皇の実名と「天皇御璽」(「御」は自らに敬意を表す尊敬語)が据えてあるが、写をはじめ活字の場合「御名御璽」とだけ書く。ここに「家康と書いてありました」という意味になる。
*直判:「ここに直接判(ここでは花押)が据えてありました」という意味でこう書いている。これが古文書学でいう写であり、メディアでいう「写」とはまったく異なることに留意されたい。
**「御名乗」「直判」とあり、これは写であって筆跡を真似て書き、花押を模写したものではありません、と明示している。もちろん権利関係のためそういった偽造された偽文書(ぎもんじょ)も多数存在する。しかし歴史学では偽文書もなぜ作成されたのかという、研究対象であることには変わりない。
*佐藤六左衛門尉:佐藤秀方
(書き下し)
来状委細披見本望のいたり候、仰せのごとくこのたび京都の仕合せ是非なき次第に候、さりながら若君様御座候間、供奉いたし上洛せしめ、かの逆心の明智討ち果たすべき覚悟にて、今日十四(日脱カ)鳴海にいたり出馬候、ことにその地日根野方、金森方一所え
あい談じられ候よし、いよいよもって専一に候、この者万々御馳走祝着たるべく候、尚追々申し述ぶべく候間、一二にあたわず候、恐々謹言、
六月十四日 御名乗直判
佐藤六左衛門尉殿
以上、三例ほど実例を挙げてみたが、日が経つにつれ呼称がどう変わっていくか、統一した名称で呼ばれるようになったのかは、後日を期したい。