日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

本能寺の変直後 社会は無政府状態に陥った

『愛知県史資料編11 織豊1』史料番号1516、789頁によれば次のような混乱状態に陥ったという。

 

 

  1516  十六・七世紀イエズス会日本報告集 

 

 

彼は(=明智光秀)(市の)いずこにも火を放たなかったが、重臣を一人、幾らかの兵と共に同所に残して彼は予期していた戦さを始めるため二、三日後、郡と境を接する河内国と津の国へ引き返した。この時、安土山(近江国)では略奪が行われ、家々を荒らして家財を盗み、路上では追剥を働くことのみが横行していたが、このことは同所ばかりでなく堺の市から美濃国および尾張国まで道程にして六、七日の所でも同様であり、ここかしこで殺人が行われた。それ故、これほどの甚大なる荒廃をもたらすため地獄がことごとく(この世に)出現したかに思われたほどであり、わずか一人の人間の死によって諸国がこんなに混乱するとは尋常ならぬことである。

 

 

光秀は安土城下の市に火を放つことはしなかったが、重臣一人と兵を残して河内・伊勢に引き返した。すでにこの時安土では略奪・追い剥ぎが横行し、これらの混乱は堺から美濃や尾張までに広がり、あちらこちらで殺人が行われていたという。このような「地獄」が、ひとりの死によってもたらされるとは並みのことではない、とイエズス会の宣教師たちは怯えていたようである。

 

この範囲は信長のいう「天下」に相当する。堺(摂津、和泉、河内三国の「境」に由来する地名)から美濃や尾張までが無政府状態なのだから、すさまじい。家康が隠密のルートで逃げ帰ればならなかった状況が理解できる。「天下布武」が崩壊した瞬間、社会情勢は一気に流動化したようだ。重臣たちが「天下」の辺境地に散らばって軍勢を展開していたせいもあるだろう。

 

嫡男信忠も死亡したせいもあるのか、信長ひとりのカリスマ性が全面に出ていたためなのか、不勉強なためわからないが、これを織田政権という点から考えると、権力の継承という点でずいぶん脆弱だったのでは、と思えてくる。

 

また、社会全体が「明智政権」なるものの正統性を疑っていたか、あるいは光秀が権力を簒奪するには不十分だと認知していたかのいずれかであろう。そうすれば、当然正統性を確立するため朝廷や足利将軍の権威が必要とされる。光秀「単独犯」では早晩消え去る運命だったといえる。本能寺の変の政治史的意味を考えるとき、権力の正統性を考慮することは重要だろう。朝廷や公家、あるいは足利将軍家のもつ権威は信長も重視していた。光秀の動機がどうであれ、社会が正統性をもつ政治権力と認識するには、光秀の軍事力や政治力だけでは不可能だったに違いない。

 

本能寺の変後、政治権力の委譲がどのようになされたのかを考慮する必要があると考える。ただ、この点の研究成果に目配りが行き届いていないため、もしかしたら多くの研究があるのかも知れない。

 

実はここで近江、美濃、尾張といった国名があがっているところに留意されたい。

 

藤田達生氏のいう「天正10年6月12日土橋重治明智光秀書状」だ。

ひとつ書きの二条目に和泉・河内への出勢について、三条目では近江・美濃の平定について言及している。その点でこのイエズス会の報告書の記述と通じるところがある。

 

本ブログでは、天正5年説か10年説か言及できないが、このイエズス会報告を見ると、やや天正10年かという気がする。ただ、本能寺の変直後に信長を「上様」「右大将家」などとする文書もあるのでなんともいえない。次回は、信長の葬儀に関する史料から「上様」「右大将家」について触れることにする。