日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

大発見? 漢数字の四・肆を「亖」と書いた実例

先日、漢数字の四・肆について触れたが、その後「大発見?」があったので報告する。

まず以下の記事をご覧いただきたい。

 

nlab.itmedia.co.jp

それに対し拙ブログにて、こういう事例があることを紹介した。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

今回は、「亖」が使われている例を紹介する。弘前大学図書館所蔵の「妙源寺古文書」のなかにそれはあらわれる。

 

 

三河国平田庄桑子太子堂敷地之事

右田畠永代所奉寄進也、然者当寺任先例、致修理祈祷精誠可有、知行之状如件、

   貞治亖年八月廿日         散位重道(花押)

 

現物の写真は http://www.ul.hirosaki-u.ac.jp/collection/rare/myogenji/index.html#page=13

 

(書き下し)

三河国平田庄桑子太子堂敷地のこと

右田畠永代寄進奉るところなり、しからば当寺先例に任せ、修理・祈祷いたし精誠あるべし、知行の状、くだんのごとし、

 

*桑の文字は異体字の「桒」だが、配慮しなかった。

 

 

この妙源寺古文書は、原本から忠実に書き写したものと思われ、陰影や花押の模写も正確で細かい。土地関係の文書は後々の裁判の証拠となるため、万一のために写をとったものと考えられる。中世人の文書の保管に関する意識が並々ならぬものであったことは、東寺百合文書に見られるとおりだ。

 

ここで「貞治亖年」(北朝年号、南朝年号では正平20年、西暦では1365年)とあるように使われた事例はあるようだ。

 

諸橋轍次大漢和辞典』巻一、524頁の「亖」の記述も「四」の籀文(ちゅうぶん:中国古代の書体である篆書の一種)とのみ記している。また、諸橋によれば「文書、帳簿などでは姦易を恐れて肆の字を用いる」(前掲書、巻三、3頁)という。日本の場合、律令制下では「肆」はしばしば見られたが、その後廃れたという気がする。荘園制では「四至」*が大前提になるので、それと関係するのかも知れない。

 

 

*四至:土地の境界を、東西南北それぞれで示したもの。「東は~を限り、南は~まで、西は××川、北は△△山にいたる」のように表す。