日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

続々「新発見」の光秀書状の原文と書き下し文を載せてみた

書状の宛所(宛先)の土橋重治について高木昭作監修、谷口克広著『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、1995年初版)255頁によると

 

生没年不詳。平之丞、平尉。紀伊名草郡の土豪雑賀衆の一人。兵次守重の弟という。本願寺に与し、播磨三木城の別所長治に助力。天正7(1579)年9月10日、三木城に兵糧を入れた(天正記・別所長治記)。

同10年1月23日以前、兄守重が鈴木孫市重秀に殺されると、一族して居城に籠もり、しばらく織田信長の軍と戦ったが、ついに敗れて、舟で土佐まで逃れた(信長公記・宇野主水日記)。

本能寺の変後、また雑賀に戻ったのであろう。秀吉に招聘されたが、仇である孫市も招かれたので断ったという(紀伊風土記・土橋伝記抜書之写)。

紀伊鶯森に移った後の本願寺とも引き続き懇意で、同10年9月24日、本願寺より根来寺への礼を取り次いでいる(宇野主水日記)。

同13年3月、秀吉の雑賀攻めに会い、砦を陥され、24日、舟でまたも土佐へ逃れた(宇野主水日記・小早川家文書)。

その後北条氏政に仕える。小田原陣の後浪人したが、その後、毛利氏に仕えるという(阿部猛外『戦国人名事典』)。 

 

 

なお早島大祐氏は「上意」「御入洛」が信長を指すという天正5年説を踏襲しており(同「明智光秀の居所と行動」178頁  藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年、2016年改訂)、雑賀攻めの戦後処理時の文書とみなしているようだ。